レスラーノート

マサ斎藤

本名:斉藤昌典
1942年8月7日
東京都中野区出身
180cm 115kg
血液型:A型

通称
獄門鬼
タイトル歴
WWFタッグ
AWA世界ヘビー
USタッグ(フロリダ版)
フロリダヘビー
フロリダタッグ
北米タッグ
アラバマヘビー
NWA世界タッグ(サンフランシスコ版)
得意技
バックドロップ
監獄固め

明大レスリング部で活躍。63年の全日本選手権では、フリー、グレコのヘビー級で優勝。64年の東京オリンピックに出場。65年4月、日本プロレスに入門。6月3日、札幌中島スポーツセンターの高崎山猿吉戦でデビュー。66年3月に猪木、豊登が設立した東京プロレスの旗揚げに参加。東京プロレス崩壊後フリーとなり67年4月に渡米。最初はロサンゼルスに行き、サンフランシスコに移動。キンジ・シブヤのパートナーに起用されて頭角を現した。68年7月13日、キンジと組んでペッパー・ゴメッツ、ペドロ・モラレス組を破りNWA世界タッグ王座を獲得した。その後、フロリダ地区に進出した。69年12月にフロリダヘビー級王座を獲得。72年3月に日本プロレスに参戦。74年4月からは新日本プロレスで活躍。77年から78年にかけてフロリダタッグ王座を5回獲得している。78年、ミスター・サイトー(後のカブキ)と組んでUSタッグ王座を獲得。79年1月、ミスター・サイトーと組んでUSタッグ王座2度目の獲得。4月、ヒロ・マツダと組んで北米タッグ王座を獲得。81年にはアラバマヘビー級王座を2度獲得。同年後半からニューヨークに進出。10月13日にミスター・フジと組んでWWFタッグ王座を獲得。82年7月にも同タッグ王者をミスター・フジと共に獲得した。 83年にAWAに定着。日本では83年から長州が結成した維新軍団の参謀格として活躍。 84年4月にケン・パテラが起こした警官暴行事件に巻き込まれて逮捕された。11月1日、ジャパンプロレスに移籍。 85年6月から1年半の刑務所暮らし。 87年4月27日、両国国技館大会で猪木と対戦。バックドロップで猪木を脳震盪に追いこむ。18分を過ぎたところでノーロープデスマッチに変更。場外戦では、斎藤のセコンドについた馳浩が斎藤の左手首に手錠をかける。その手錠で殴打して猪木が大流血。猪木の左手首に手錠をかけて、手錠デスマッチになる。猪木のナックル、エルボー、ヘッドバットの乱れ打ちで斎藤がダウン。そのままパンチを振り下ろし続けた猪木に対し、馳がタオル投入。26分2秒、TKO負けに終わった。10月4日、巌流島で猪木と対戦。観客のいない広場に真っ白いリングを組み立てての試合で、2時間5分14秒におよぶ死闘を展開。最後は猪木のスリーパーホールドに敗れた。 89年4月24日、初開催となった東京ドーム大会でワッハ・エブロエフと対戦。5分28秒、飛びつき腕ひしぎ逆十字固めに敗れた。 90年2月10日、新日本プロレスの東京ドーム大会でラリー・ズビスコと対戦。14分29秒、首固めで勝利してAWA世界ヘビー級王座を獲得した。IWGPタッグ王座にも長州、橋本と組んで2度君臨。新日本プロレスではブッカーとしても活躍し、日米ソ3軍対抗戦や、WCWとの提携などで手腕を発揮した。 93年5月3日、福岡ドーム大会でブルータス・ビーフケーキと対戦。8分35秒、倒れこみ式ヘッドバットに敗れた。 97年1月4日、東京ドーム大会でグレート小鹿と対戦。4分25秒、足首固めで勝利。 99年2月14日、日本武道館大会で引退試合。スコット・ノートンと対戦し、6分35秒、パワースラムに敗れた。引退後はテレビ解説者としても活躍。00年にパーキンソン病を発症。03年に新日本プロレスを退社し、長州が旗揚げしたWJプロレスに入団。05年12月14日、株式会社健介オフィスの設立発表の記者会見に出席。健介オフィスの選手アドバイザー就任を発表された。その後は健介オフィスの道場で若手を育成した。 16年12月2日、大阪市立城東区民センターでの元新日本プロレス取締役の上井文彦のプロデュース興行で、全試合終了後にジャパンプロレスのジャージー姿で登場。自らの足で歩いてリングインし、「みなさん、こんばんは。元気ですかー?これはアントニオ猪木が言う言葉だ」と挨拶。直後に海賊男が乱入し、ストンピングを浴びて倒れたが、パンチ、ストンピングで降参させた。マスクを脱いだ正体は武藤敬司。満面の笑みを浮かべて抱きあった。最後は「1、2、3、Go for broke!(当たって砕けろ)」と観客と大合唱した。18年7月14日、死去。



スクラップブック
巌流島
――プロレスは本来、観客がいて成立するものですよね。マサさんにしてもアメリカで客席の反応を見ながら試合を組み立てていたと思いますが、巌流島のような観客不在の間に状況でよくモチベーションを持続することができたなと。
「簡単よ。無になりゃいいんだよ。リングさえあれば、どこだっていいんだよ。戦えれば。こっちは慣れたもんだよ。リングの中だけじゃなくて、外であろうと、どこでも戦える。アントニオ猪木もそう。でも、その真似は誰にもできない」
――しかし、歓声のない屋外での試合というのは、あり得ない状況ですよね。
「あの時はハイになった。ハイで戦った。ふと気づいたら闇夜になっていて、松明に火がつけられて・・・あれで余計にハイになった。ランナーズハイと一緒だよ」
――リング上で関節の取り合いが続き、場外の草地に移ってもグラウンドの攻防になり、猪木さんが大技のバックドロップを出したのは試合開始から1時間20分後という、まさしく決闘でした。
「あの試合は今でも俺の頭の中に入っている。アントニオ猪木と戦うのは楽しかったよ。アントニオ猪木も俺もレスリングを知ってるから」
――お互いにダメージも凄かったですよね。猪木さんは試合中に右肩が外れて自分で入れたといいますし、マサさんも胸部打撲と発表されました。
「アントニオ猪木のキックで、(胸を指しながら)ここの骨(剣状突起)が折れた。アントニオ猪木は鎖骨を折ったはずだよ。最後はスリーパーホールドで負けたけど、悔いはなかった。試合後、病院に運ばれて、額を縫って、胸をチェックしてもらってからホテルに戻ったんだけど、ビールを50缶飲んだんだ。2時間5分も戦って脱水状態になってるし、身体が痛いんだよ。だから、ガンガン飲んだ。山本小鉄ちゃんが俺の部屋に来て、一緒に飲んだけど、全然酔わなかったよ」
(Gスピリッツvol.40より)


警察官との乱闘で刑務所へ・・・マサ斎藤
(YOMIURI ONLINE 2015年2月5日8:30より)
獣のような目をした長州がNYに
 ちょうどニューヨーク(NY)にいたときに、長州(力)が訪ねてきたんですよ。俺は1974年(昭和49年)に新日本のリングで凱旋帰国して以来、何度か短期で帰国して試合をやっていて、長州とも対戦しているけど、正直、そのころの長州は、坂口(征二)のタッグパートナーといったぐらいで、ほとんど印象に残っていない。ところが、ニューヨークにやってきた長州は目の色がまったく違っていた。獣のような目をしていた。新日本の体制に反旗を翻してすぐあとのころで、彼は必死だった。ただ、長州との関係はよく師弟関係にたとえられるけど、実際はそんなもんじゃありませんよ。基本、俺は一匹狼だから。

 <長州が結成した維新軍に加わり、長州と両輪で日本のプロレスを変えていこうとしたマサ斎藤を、思わぬ“災難”が襲う。1984年4月、同僚のレスラーの警察官との喧嘩けんかに巻き込まれ、有罪判決を受け1年半、収監されたのだ>

 ウィスコンシン州のワカシャという小さな町で、その日のうちにミネアポリスに帰る予定だったのが、次の日も試合が組まれることになり、オフィスから泊まるように連絡があったんです。それで、同じ指示を受けたケン・パテラと一緒に、ホテルにチェックインした。ふだん俺は1人部屋をとるんだけど、ケンが相部屋でどうかと言うので、1泊くらいならたまにはいいやと。それのが運の尽きだったんだな。
 夜11時ごろにホテルに着いたので、食事をするところがないんですよ。バーで軽くビールを飲んでいて、バーテンダーに「どこか食事のできるところはないか?」と聞くと、近くにマクドナルドがあるという。それでケンが買いに行ったんだけど、なかなか、戻って来ない。諦めて、バーの壁にぶら下がっている定番のポテトチップスで我慢して部屋に戻ると、まもなく、ケンが「店が閉まってた」と戻って来たんだ。ところが、何か様子がおかしい。俺は、他人のことには一切干渉しないから、何も聞かずに、パンツ1枚になってベッドに入って寝ようとしたときに、ドアをノックする音がしたんです。
 ドアを開けると、男と女の警官が2人いるんですよ。パンツ1枚なので、とにかくGパンを履かせてくれと部屋に戻ろうとすると、閉まるドアに、足を突っ込み、強引に押し込んできた。するとベッドで寝ていたケンが猛然と起き上がって女性の警官を抱え上げて、ホテルの廊下の壁に叩きつけたんです。ケンはウェートリフティングの五輪代表で、とにかく力があるんだ。俺はもうなにが起きているか、まったくわからなくて、ぽかんとしてパンツ1枚で立っていたんだ。
 そうしたら男の警官が、拳銃を抜いて向けるわけですよ。とっさに「ケンが撃たれる」と思った俺は、警官にタックルをかまして、ひっくり返したんだ。すると、相手は、ナイフスティックと言う金属の棒で、殴ってきた。レスラーは、殴られると反射的に、やり返す習性がついているんですよ。さらには、一度始めたら、ますますエキサイトして止まらなくなる。俺は名前が売れていたから、乱闘中にも「ストップ、サイトー!」と何度も言われたが、ブレーキは効かない。オリンピアン出身のパワフルなプロレスラーが大暴れしているとの無線通報で、警官がどんどん詰め掛けてきてね。ホテルの廊下で殴る蹴るの大乱闘になった。最終的に15人ぐらいの警官にケンと俺の2人が取り囲まれるようになった。それでも倒れると押さえ込まれると思って、こっちもプロレスラーの意地で、仁王立ちしてたんだ。まだ、やろうと思えば出来たけど、試合後でしかも飯抜き。さすがに、戦力低下で、廊下に倒れた。ところが、筋肉モリモリのヘビー級を起こすのは、そう簡単ではない。数人かかって、十字架吊りで起こされ、ガチャン。手錠がかけられた。

納得がいかない有罪判決

 <陪審員裁判の結果、女性警官への暴行ということで禁固2年の判決を受ける>

 翌朝、留置所で、トイレットペーパーを枕に寝てたら、「サイトー起きろ」と言われて出頭。すると、松葉杖ついている警官や絆創膏貼っている警官がいるんで、「どうしたんだ」と聞いたら、「お前がやったんじゃないかっ!」って。
 それで法廷で話を聞くと、ケンのやつがマクドナルドに行くと、すでに閉店していて、店を開けろ、開けないと店員とトラブルになり、大きな石を店のウィンドウに投げつけたというんです。原因を作ったのはケンだし、女性警官を投げ飛ばしたのもケン。それなのに、裁判では、俺もケンと一緒に現場にいたとか、俺が女性警官を投げ飛ばしたことになり、それで有罪だったんだ。
 アメリカの小さな田舎町での事件だからね。日本人に対する差別を感じたね。しかも、マズイことに、投げ飛ばされた女性警官が、地元の検事の娘だったなんて悪夢そのもの。 これも、判決に影響したのだろう。当然、俺は納得ゆくはずがない。日本の領事館まで行って、助けを求めたんだ。パスポートを見せて、“日本国民を守る”と書いてあるではないかと。でも、さすがの領事館でもなすすべがなかったようだね。

マイナスではなかった刑務所暮らし
 レスラーとして一番脂ののった40代前半のことだからね。悔しいといえば悔しいけど、考えようによっては、いい休養になったとも思うんです。体も疲れきっていたから。刑務所といっても、段階があり、俺が送られた所は、キャンプと呼ばれる、軽めの更生施設。どのレベルに送るのかを判断するのに、最初は、文字通り、頭のてっぺんからつま先どころか、素っ裸にされ、口の中まで徹底した身体検査を行った上で、独房に入れられ、性格を見られる。俺は凶暴ではないと判断された訳だ。
 フェンスなどなくて地面に線が引いてあるだけ。線から向こうに出たら脱獄。ジムまであるので、体を鍛えることもできる。最初は、薪割り、これが、意外にキツイ。実は最初に、これをやらされるのは根性確認のためなんだ。俺は、黙々こなし耐えた。ところが、ケンは家に帰りたいと泣きべそかきやがった。なさけなかったね。俺は、こんなやつのために、ここに入れられたのかと。
 それから道路工事したりとか、いろいろな作業をしたが、俺は模範囚だったから、そのうち、希望の部署で作業できるようになり、選んだのはキッチン。例によって、ゆで卵の白身をたくさん食べて、夜はトレーニング。アルコールなしで規則正しい生活。それに、キャロンという女性の先生から英語の個人授業まで受けさせてもらった。それまで、ちゃんとした文法を習ったことはなかったから。おかげでレスラー寿命が5年は延びたような気がするね。
 監獄固め?あれはアマレスのトルコ刈りという技をプロレス向けに改良した技で、よく言われるように刑務所で開発したわけじゃないんだよ。刑務所の中では、他の収容者と体をふれあうことは禁じられているから。せっかく刑務所生活をしたのだから、それを逆にセールスポイントにしようと、そう名付けたんですよ。
 仲良くなった看守も数人いたから、出所してから、近くで試合があった時、一度、遊びに行ったら「お〜、サイトーよくきたな」と歓迎されてコーヒーご馳走になったよ。あの経験は、結果的には決してマイナスの体験ではなかったんだよ。
 ただ、グリーンカード(永住権)までもらって、骨を埋めようとまで思っていたアメリカに傷つけられたような感覚があったのかもしれない。先に“ハリウッド”スタイルが性に合わないことを、ニューヨークからの桁違いのオファーを断って帰国を決意した理由のひとつに挙げたが、この事件の影響もあったかもしれない。この事件に対する心境は、実は複雑で、いまだに自分自身よくわからないんだ。
(聞き手・構成 メディア局編集部 二居隆司)