ダークロHP / レスラーノート

前田日明

本名:高日明
1959年1月24日
大阪府大正区出身
173cm 75kg
タイトル歴:ヨーロッパヘビー WWFインターナショナルヘビー
得意技:キャプチュード

通称「格闘王」。在日朝鮮人3世。中学時代から空手を習う。大阪北陽高校卒業後に無想館拳心道2段を取得。77年7月に新日本プロレス入門。8月25日、長岡市厚生会館の山本小鉄戦でデビュー。5分42秒、腕固めで敗れた。デビュー後、引き分けをはさんで67連敗。 81年12月にカール・ゴッチにマン・ツー・マンの特訓を受ける。 82年2月にイギリス遠征。クイック・キック・リーを名のる。 83年1月にロンドンでウェイン・ブリッジを破りヨーロッパヘビー級王座を獲得。4月21日、蔵前国技館大会に出場し、凱旋帰国試合としてポール・オンドーフと対戦。3分26秒、風車固めで勝利した。5月には新日本プロレスの第1回IWGPリーグ戦にヨーロッパ代表として出場。5月27日には高松市市民文化センターでアントニオ猪木と対戦。猪木の平手打ちから試合が始まり、前田はフライングニールキック、ジャーマンスープレックス、ドラゴンスープレックスの大技攻勢をかけたが、卍固めで動きを止められ、最後は12分57秒、延髄斬りで敗れた。リーグ戦はカネック、エンリケ・ベラに勝利し、2勝6敗の成績だったが、ファイト内容が評価された。11月3日、蔵前国技館大会で長州力と対戦。フライングニールキック、フロントスープレックス、ジャンピングネックブリーカードロップで攻めまくった。バックドロップ、サソリ固め、リキラリアット、サソリ固めの連続で12分57秒、レフリーストップで敗れたが、猪木の後継者として注目されるようになる。25歳の時、新日本プロレスの勧めで日本人に帰化。 84年3月25日、マディソン・スクエア・ガーデンでの王座決定戦でピエール・ラファエルと対戦。10分32秒、コブラツイストで勝利。WWFインターナショナルヘビー級王座を獲得。4月に新日本プロレスを離脱しUWFを旗揚げ。旗揚げシリーズ後は独自路線を推し進め、佐山聡のシューティングを基本に試合を行うようになる。従来行われていた反則負けやロープワークやリングアウトがないスタイル、さらに道場で使われているような関節技や格闘技的なキックを取り入れ、爆発的な人気を呼んだ。9月2日、大阪臨海スポーツセンター大会で佐山と対戦。不可解なシュートマッチをしかけ、強烈なキックとガチガチのグラウンドで佐山を圧倒。18分57秒、佐山のアピールにより急所攻撃による反則負けで試合終了。前田はその後の2大会は欠場。UWFは85年9月11日の大会を最後に崩壊した。 86年1月に新日本プロレスに出場。4月にアンドレ・ザ・ジャイアントにセメントマッチをしかける。この試合でアンドレは試合放棄した。6月12日、大阪城ホール大会で藤波と対戦。22分5秒、両者KOに終わった。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞。お互いのスタイルを超越した名勝負と長く語り継がれた。10月のドン・ナカヤ・ニールセンとの異種格闘技戦で勝利。メインで行われた猪木、スピンクス戦よりも高い評価を得た。 87年11月19日、後楽園ホールでの6人タッグ戦で、長州の顔面にキックをして眼底骨折を負わせる。その事件がきっかけで新日本プロレスを解雇された。 88年5月に第2次UWFを旗揚げ。9月24日、博多スターレーン大会で山崎一夫と対戦。10分50秒、右ハイキックを決めて5度目のダウンを奪いKO勝ち。 89年5月4日、大阪球場大会のメインでクリス・ドールマンと異種格闘技戦。2万3千人の大観衆の前でサンボの投げ技やアキレス腱固めに苦戦したが、ローキック、キャプチュードでたたみかけ、4R30秒、膝十字固めで勝利。11月に東京ドームに進出。前田は柔道王W・ウイルヘルムと対戦し、膝十字で勝利した。89年度のプロレス大賞でMVPを受賞した。 91年5月11日、オランダのC・ドールマンらの協力を受け、リングスを旗揚げ。横浜アリーナの旗揚げ戦でディック・フライに勝利した。当初、日本人選手は前田しかいなかった。リングスの試合は衛星放送WOWOWで放送されることになり、前田は団体を軌道に乗せた。96年11月22日、大阪城ホール大会で藤原喜明と対戦。足関節の攻防を続け、10分55秒、裸絞めで勝利。97年12月23日、リングスの福岡国際センター大会でのメガバトルトーナメント準決勝で田村潔司と対戦。14分44秒、腕ひしぎ逆十字固めに敗れた。99年2月21日、横浜アリーナの引退試合で、アマレスでオリンピック3連覇のアレキサンダー・カレリンと対戦。試合は判定負けに終わった。引退後もリングスを運営していたが、02年2月14日に興行停止した。
<<前田日明年表>>
77年7月 新日本プロレス入門。
78年8月25日 長岡大会で山本小鉄を相手にデビュー。
79年1月26日 岡山大会でのタッグマッチで初勝利。
79年3月28日 盛岡大会で斎藤弘幸を相手にシングル初勝利。
82年1月4日 81年度プロレス大賞で努力賞を受賞。
82年2月 イギリス遠征。
82年3月 イギリスでデビュー。
83年4月13日 ヨーロッパヘビー級王者として帰国。第1回IWGPリーグ戦に欧州代表としてエントリー。
83年4月21日 蔵前国技館大会でポール・オンドーフを相手に凱旋帰国試合。3分26秒、風車固めで勝利。
83年5月9日 秩父大会でアントニオ猪木と初タッグ。
83年5月27日 高松大会でアントニオ猪木と初シングル。12分57秒、延髄斬りにフォール負け。以後、猪木とのシングル戦は行われることはなかった。
83年11月3日 維新軍との4対4綱引きマッチに出場。長州力と対戦。12分57秒、さそり固めにレフリーストップ負け。
84年1月 83年度プロレス大賞で技能賞を受賞。
84年2月9日 大阪大会で新日本プロレス所属としてラストマッチ。
84年3月 WWFのサーキットに参加。
84年3月25日 マジソンスクエアガーデン大会でピエール・ラファイエルに勝利してWWFインターナショナルヘビー級王座を獲得。
84年4月1日 UWF発足記者会見。前田のUWF参加が発表された。旗揚げ当初のメンバーはマッハ隼人、ラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田、高田延彦。その後、佐山が加入し、独自の格闘路線を推し進めた。
84年4月11日 大宮スケートセンターでUWFの旗揚げ戦。ダッチ・マンテルに勝利。
84年9月11日 後楽園大会でスーパー・タイガーと対戦。
85年9月2日 大阪府立臨海スポーツセンター大会でスーパー・タイガーと対戦。セメントマッチをしかけ、最後は佐山が急所攻撃されたことをアピールしたことによって18分57秒、反則負けとなり試合終了。この試合が前田のUWFでのラストマッチとなった。
85年9月11日 後楽園大会でUWF最終興行。
85年12月6日 新日本プロレス両国大会に来場。業務提携を発表。
86年2月5日 大阪城ホール大会で藤原喜明とUWF代表者決定戦。敗れて猪木との対戦の機会を逃す。
86年4月29日 津市体育館大会でアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。セメントマッチとなり、26分35秒、アンドレがリング上で寝そべり、試合放棄で終了。
86年6月12日 大阪城ホール大会で藤波辰巳と対戦。両者KOの引き分け。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。
86年8月5日 両国国技館大会で木戸修と組んでIWGPタッグ王座を獲得。
86年10月9日 両国国技館大会でドン・中矢・ニールセンと異種格闘技戦。会場を大熱狂させる名勝負となり、5R2分26秒、逆片エビ固めで勝利。
86年12月10日 大阪城ホール大会で猪木とタッグマッチで対戦し、リングアウト勝ち。
87年2月28日 UWF主催の後楽園ホール大会を開催。
87年8月19日 両国国技館大会でニューリーダー軍(長州、前田、藤波、マシン、木村)としてナウリーダー軍(猪木、坂口、藤原、星野、武藤)とのイリミネーションマッチ。リーダーの猪木に対し、前田が両者リングアウトに持ちこむ。結果はニューリーダー軍の勝利に終わった。
87年11月19日 後楽園ホール大会での6人タッグ戦で長州力の顔面をキック。試合は10分51秒、長州のラリアットに高田がフォール負け。
87年11月20日 無期限出場停止処分となる。猪木からは「プロレス道にもとる行為」とコメントされた。
88年3月 新日本プロレスからの解雇が発表。
88年4月8日 第2次UWF発足記者会見。
88年5月12日 後楽園ホールで第2次UWFの旗揚げ戦。山崎一夫と対戦し、勝利。
88年11月10日 名古屋大会で高田延彦に敗北。
89年5月4日 大阪球場大会でクリス・ドールマンに勝利。
89年11月29日 東京ドーム大会でウィリー・ウィルヘルムに勝利。
90年1月4日 プロレス大賞でMVPを受賞。
90年10月25日 大阪城ホール大会で船木誠勝と対戦。16分59秒、胴絞めスリーパーホールドで勝利。試合後のバックステージでUWFのフロント陣の不透明経理などを非難するコメント。この試合が第2次UWFでのラストマッチとなった。
90年10月28日 大阪城ホール大会での試合後のコメントが問題視され、フロントから5ヶ月間の出場停止処分が発表。
91年3月14日 リングスの設立を発表。
91年5月11日 横浜アリーナでリングスの旗揚げ戦。
93年3月 ヒザの手術のため長期欠場。
10月23日 福岡大会で復帰。
94年1月21日 日本武道館大会でバトル・ディメンション・トーナメント決勝。ビターゼ・タリエルに勝利して優勝。
94年7月14日 大阪府立体育会館大会でディック・フライと対戦。2分54秒、レッグロックで勝利。試合後、ダウンしていたフライの背中をストンピングで踏みつけ、乱闘騒ぎとなった。
95年2月 オランダでリングス・オランダ旗揚げ戦。
96年1月24日 日本武道館大会でメガバトル・トーナメント決勝。山本宣久に勝利して優勝。
96年3月 ヒザを手術。
97年8月31日 横浜アリーナでの長州力引退記念試合に花束をもって登場。
97年12月23日 福岡大会で田村潔司に敗北。
98年7月20日 横浜アリーナ大会でリングスでのラストマッチ。山本宣久に勝利。
99年2月21日 横浜アリーナでオリンピック3連覇中の現役レスラーであるアレクサンドル・カレリンと引退試合。2R判定負け。
前田 カレリンは日本に来てからも土壇場まで試合ができる、できないでモメたんですよ。でも、亡くなったパコージン(ウラジミール・パコージン。元リングス・ロシア代表)が大会の前日の晩に、カレリンに直接会って泣きながら「マエダはペレストロイカで食えなくなったロシアの格闘技選手を食えるようにしてくれて、なおかつロシアでプロ格闘技の道を作ってくれて、お金も出して協力もしてくれた。アナタもロシアの英雄と呼ばれる人間ならば、ロシアのためにそこまでしてくれた人物のために試合をしてくれてもいいじゃないか」って言ってくれたんだよ。それを聞いたカレリンは「分かった」って言って。「ロシアのためにそこまでしてくれた人物なら、ひと肌脱ごう」って、試合をやってくれた。(週刊プロレス No.1549より)
02年2月15日 横浜文化体育館大会を最後にリングス活動停止。
05年1月22日 プロレス団体「ビッグマウス」のスーパーバイザーとして会見に登場。
05年1月22日 「ビッグマウス」のスーパーバイザーとして会見に登場。05年から07年にかけて開催された総合格闘技イベント「HERO’S」ではスーパーバイザーに就任。
06年2月26日 「ビッグマウスラウド」の徳島大会に来場し、船木と共に団体からの離脱を表明。
08年1月 リングス公式サイトで格闘技イベント「THE OUTSIDER」設立を発表。
08年3月30日 ディファ有明で「THE OUTSIDER」の旗揚げ戦。
結婚する3、4年ぐらい前に九州の「天下一武闘会」っていう、日本で初めての不良を集めた総合の大会を見に行ったんだけど、それを見ておもしろいなと思ってね。でもこれを東京でやって、もし一回でも乱闘とか起こったら、もうどこもRINGSに会場を貸してくれなくなるなと思って、なかなか実際にやるまでにはいかなかったんですよ。(中略)息子、息子って、息子のことばかりを考えていたら、よその子どものことも気になってきてね。なんか若くて、いちばん夢いっぱいの子どもたちが殺人とか起こしたりして・・・。そんなの見てると、なんか夢がないんだよね。オレらの頃は、若くて多少ヤンチャな奴でも、元気があっていいじゃないかって雇ってくれるような気概のある経営者もいたんだけど、いまはそういう人もあんまりいなくて、一度不良の道とかに進むと、大変なんですよ。そういう子たちがかわいそうだなって思って、格闘技のプロモーターとしてそういう子たちになにかできることはないかなって思ったときに、天下一武闘会のことを思い出して、やってみようって。本当は参加費取って、保険代も払わせたらラクなんだろうけど、それをやったら社会貢献もなにもないから。そういうものは一切取らないで、スポンサーを募って、チケット代取って、DVDを売ったりして、やっていけばいいんじゃないかって。出場者にはやる気が出るように、20個ぐらいの賞を用意してね。そこからつぎのどこかのチャンピオンとか出てきたら、夢があるしね。これでオレが68歳ぐらいで死んだときに、若い刺青を入れたような奴らがオレの葬式に来てワンワンと泣いてくれたら、それで成仏できますよ(笑)。(前田談)(週刊プロレス No.1549より)

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