ダークロHP / レスラーノート

星野勘太郎

本名:星野建夫
1943年10月9日
兵庫県神戸市出身
170cm 95kg
タイトル歴:カリフォルニアTV王座 サザンタッグ 南部ジュニアヘビー NWA世界タッグ IWA世界タッグ
得意技:マシンガンパンチ(パンチの連打)

きびきびした動きの弾丸ファイター。神戸商高ではボクシング部で活躍。61年10月に日本プロレス入門。リングネームは股旅物の「伊那勘太郎」から取った。名づけ親は押山保明宣伝部長。12月22日、リキ・スポーツパレスの駒厚秀(マシオ駒)戦でデビュー。67年1月、山本小鉄と共にアメリカ遠征。ロスで4週間参戦後、山本はテキサスに移動。星野はしばらくロスに残りカリフォルニアTV王座を獲得。その後テネシー地区に転戦。グレート・ヤマハを名のった。7月、タマヨ・ソト(プエルトリコ人)と組んでNWA世界タッグを獲得。タマヨとはサザンタッグ王座も獲得している。8月に南部ジュニアヘビー級王座を獲得。9月、山本をテネシーに呼んでヤマハブラザースを結成。NWA世界タッグを獲得。70年1月に2度目の遠征。マシオ駒と共にロス、メキシコを転戦。メキシコでは最初、リンピオ(正統派)としてエル・サントなどと活躍。リングネームはヤマモト(山本五十六から)。帰国直前にルード(悪役)になってサントとタッグで対戦。帰国後の70年11月、「第1回NWAタッグリーグ戦」で猪木と組んで優勝。71年2月19日、ミル・マスカラスが日本マットに初登場した時の対戦相手になる。ドロップキック3連発からのダイビングボディアタックに敗れた。この試合が評判を呼び、マスカラスの人気を決定づけた。「マスカラスが第1戦でおれとやらなかったら、今日の彼はいないですよ。俺のお陰ですよ」(ゴング945号より)日本プロレス崩壊直前の73年、メキシコを中心に3度目の遠征。ルード側で参戦。ライバルはエル・ソリタリオ。6月29日、アレナ・メヒコでレネ・グアハルドとカベジェラ戦を行い、敗れて髪の毛を剃られた。この試合は同地の年間最高試合となった。74年1月より新日本プロレスに参戦し、山本とのコンビを復活させてファンを喜ばせた。79年1月には山本小鉄と国際プロレスのリングに乗りこみ、グレート草津アニマル浜口組からIWA世界タッグ王座を奪取。第1次UWFと新日本プロレスとの抗争では、連日のケンカマッチを展開し注目を浴びた。86年1月14日の豊岡大会では途中からケンカになり、前田日明を控室まで追いかけて殴り合いしたこともあった。95年2月19日、両国国技舘で引退。当時新日本プロレスの実権を握っていた長州と仲が悪く、新日本プロレスを退社し神戸でプロモーター業を営む。02年、長州退社後に新日本プロレスに復帰し、魔界倶楽部の総裁となって活躍。「ビッシビシいくからな!」のかけ声と共に魔界軍団を率いて注目を浴びる。03年5月1日、東京ドームで行われた新日本プロレス「ULTIMATE FESTIVAL」で、魔界マスクをかぶり新日本OBバトルロイヤルに出場。当初レフリーだった山本小鉄は永源らの挑発を受けて試合に出場し、ヤマハブラザースが復活。最終的にこの2人がリングに残り、マスクを脱いだ星野は小鉄と対峙。しかし、両者はともに手を挙げ、「2人で1人だ!」と主張。それが認められ、ヤマハブラザーズの両者が優勝となった。06年5月から始まった新日本プロレスのイベント「レッスルランド」では魔界倶楽部を復活させヒール軍団として活躍した。 08年12月18日、後楽園ホールでの「昭和プロレス」で山本小鉄と組んでグレート小鹿ザ・グレート・カブキ組と対戦。10分、時間切れ引き分けに終わった。12月22日、新日本プロレスの後楽園ホール大会で外道を相手にストリート・ファイト・エニウェアフォールマッチで対戦。コーナートップから場外の外道にプランチャを浴びせるなど、65歳とは思えない動きを見せた。最後はイス攻撃をかわし、12分38秒、急所蹴り、ナックルパンチからの片エビ固めで勝利。試合後に「外道、いつでも来い!ビッシビシいくからな!」とマイクアピールした。09年2月4日の早朝、都内で知人と会っていた際に脳梗塞に倒れ、集中治療室へ。その後、リハビリに励んでいたが、10年11月25日、さいたま市の病院で肺炎のため死去。


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