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フリッツ・フォン・エリック
FRITZ VON ERICH


本名:ジャック・アドキッセン
1929年8月16日
テキサス州シューウィット出身(ギミックとしてはドイツ・ベルリン出身)
195cm 120kg
タイトル歴:AWA世界ヘビー テキサスヘビー アメリカンヘビー インタータッグ
得意技:アイアンクロー

「鉄の爪」で知られる、アイアンクローの名手。サザン・メソジスト大学時代はフットボール選手として活躍した。50年に結婚してそのまま大学を中退。NFLのダラス・テキサンズのトライアウトを受けたが入団に失敗。カナダに渡り、CFLのエドモントン・エスキモーズに入団。カルガリーでスチュ・ハートと出会い、52年からフットボールのオフシーズンにプロレスのトレーニングをハート道場で始める。53年にカルガリーのクロンダイク・レスリング(後のスタンピード・レスリング)でプロレスデビュー。デビュー当初はジャック・アドキッセンと名のっていた。58年にニューヨーク州バッファローでフリッツ・フォン・エリックに改名。親指と小指の間32cm、握力130kg以上のアイアンクローを開発して有名になる。62年1月、バーン・ガニアを破りオマハ版AWA世界王者になる。8月に王座を奪回されたが、63年7月、オマハ版とミネアポリス版の両AWA王座を獲得。65年1月、ホームリングのダラスのエド・マクレモア派から主力メンバーを引き抜き、サウスウエスト・スポーツ社を設立。ダラス地区のプロモーターになる。テキサスヘビーやアメリカンヘビー級王座を何度も獲得。66年にヒールのパートナーであったデューク・ケオムカと仲間割れして、ベビーフェイスに転向。11月に日本プロレスに初来日。11月28日、大阪府立体育館大会でジャイアント馬場のインター王座に挑戦。1本目は12分43秒、ドロップキックをかわされて16文キック、水平チョップの連打にフォール負け。2本目は4分44秒、アイアンクローで勝利。3本目は馬場のセコンドについたゴリラ・モンスーンに気をとられているすきに32文ドロップキックをくらってリングアウト負け。12月3日、日本武道館大会で馬場のインター王座に挑戦。1本目は2分36秒、馬場の水平チョップにフォール負け。2本目は4分46秒、アイアンクローで勝利。3本目は6分55秒、イス攻撃で反則負けに終わった。 67年5月27日、札幌中島スポーツセンター大会で馬場のインター王座に挑戦。1本目は11分42秒、ニードロップからフォール勝ち。2本目は4分、エリックのセコンドのワルドー・フォン・エリックが馬場を攻撃したため反則負け。3本目は7分25秒、猪木のアシストを得た馬場に体固めで敗れた。71年9月6日、日本プロレスの札幌中島スポーツセンター大会でアントニオ猪木のUN王座に挑戦。1本目は10分45秒、ストマック・クローで勝利。2本目は1分10秒にフォール負け。3本目は5分10秒に両者リングアウトに終わった。日本プロレスには通算5度来日した。馬場のインター王座には6度挑戦。72年6月24日、テキサス・スタジアムでドリー・ファンク・ジュニアのNWA王座に挑戦。26,339人もの大観衆を呼び、当時のテキサスでのプロスポーツの興行収益記録を作った。73年4月18日、焼津市民体育館大会でキラー・カール・クラップと組んで大木上田馬之助組を破りインタータッグ王座を獲得。75年、全盛期のNWA会長に就任。全日本プロレスには3度来日し、馬場のPWF王座に2度挑戦。最後の来日は79年1月。82年6月6日、ダラスで引退試合。NWA崩壊後はダラスにWCCWを設立し新日本プロレスと業務提携。84年5月6日、テキサススタジアムでの「デビッド・フォン・エリック追悼興行・パレード・オブ・チャンピオンズ」で現役復帰し、息子のケビン、マイクと組んでフリーバーズと対戦し勝利。89年8月にWCCWは、USWA(ジェリー・ローラーとジェリー・ジャレットがオーナー)に吸収合併されて消滅した。5人の息子のうち4人がプロレスラーになったが2男ケビンを除く全員が次々に怪死。97年9月10日にダラスの自宅で肺ガンのため死去。

長男のジャッキーは6歳で感電死、三男のデビットは84年に日本で客死(麻薬によるショック死説が有力)、四男のケリーは93年に自殺、五男のマイクは87年に自殺、六男のクリス(当時21歳)も91年に自殺した。

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