中学卒業後、自動車整備工場に勤める。ボディビルで体を鍛え、70年6月、日本プロレスに入門。同郷の北沢(魁勝司)を頼って九州巡業についていって、性格の優しい北沢は追い返すわけにもいかず、なし崩しのような入門だった。71年5月9日、岐阜市民センターの北沢幹之戦でデビュー。7分50秒、首固めで敗れた。猪木の付き人となる。72年3月、新日本プロレス旗揚げに参加。74年の 第1回ゴッチ杯に優勝し、75年6月に海外遠征へ出発。欧州、主にドイツで活躍。その後アメリカに移動し、ミッドアトランティック地区でリック・フレアーなどと対戦。76年4月からフロリダでゴッチの指導を受ける。77年3月にメキシコ入り。リング・フヒナミの名でルードでスタートしたが、1ヵ月後にリンピオに転向した。レネ・グァハルドのUWA世界ミドル級王座、エル・ソリタリオのUWA世界ライトヘビー級王座に挑戦したが奪取ならなかった。78年1月、マジソンスクエアガーデンでホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックスで破りWWWFジュニア王座を獲得。3月1日に凱旗帰国。ドラゴン・ブームを巻き起こした。新日本プロレスは藤波を売り出すためにマンドー・ゲレロとアンヘル・ブランコに、ドラゴン・スープレックスを受けた後に「失神」させ「負傷欠場」させた。その後、WWWFジュニア王座を23回防衛。79年10月に、剛竜馬に敗れて王座から転落したが、2日後にベルトを奪還。その後、20回防衛した。81年10月、WWFジュニア王座を返上し、ヘビー級に転向。82年8月30日、ニューヨークのマジソンスクエアガーデンでジノ・ブリットと対戦。12分39秒、延髄斬りからのブレーンバスターで勝利し、WWFインターナショナルヘビー級王座を獲得した。85年9月19日、東京体育館大会で猪木と対戦。リング中央で藤波の足4の字固めが決まり「折ってみろ!」と猪木が挑発。7分間も、4の字固めのせめぎ合いが続いた。猪木にジャーマンをかけられたがドラゴンスープレックスでやり返した。終盤には猪木の卍固めを2度ロープブレークしたが、3度目の卍固めにレフリーストップ負け。12月、木村と組み初代IWGPタッグ王者となる。88年4月22日、沖縄・奥武山体育館大会での控室でアントニオ猪木との口論から藤波が決起をアピール。「やりますよ!」と吠えながら突然ハサミで前髪を切る。この藤波の決起は「飛龍革命」と呼ばれた。5月には王座決定戦でベイダーに勝利し、第2代IWGPヘビー級王座を獲得。8月8日、横浜文化体育館大会で猪木を相手に防衛戦。白熱の名勝負を展開。60分フルタイムドローの引き分けで王座防衛。89年7月から椎間板ヘルニアのため長期欠場。90年9月に復帰。91年3月の東京ドーム大会で、IWGPヘビー級王者の藤波はNWA世界王者のリック・フレアーに挑戦し、グランド・コブラツイストで勝利。NWAのベルトを一度は腰に巻いたが、試合後にWCWの役員ダスティ・ローデスとバリー・ウインダムが「藤波はオーバー・ザ・トップロープの反則を犯していた」とベルトを藤波から剥奪。渡米した藤波は5月19日のフロリダ州セントピータースバーグ大会でフレアーと再戦。18分6秒、チョップ合戦を分けていたレフリーが藤波と激突してダウンしているスキに、背後からタイツをつかまれてのエビ固めでサブレフリーにフォールを取られて敗れた。93年8月、G1に出場し、決勝で馳浩と対戦。21分49秒、サソリ固めで勝利してG1初優勝を達成。
98年4月、IWGP王座6度目の獲得。99年6月に新日本プロレス社長に就任。00年5月5日、福岡ドームでの「エピローグ・オブ・ドラゴン」では引退カウントダウンを表明するが、その後引退を白紙に戻し、8月G1に出場。01年8月にも出場し村上を秒殺した。9月に西村とタッグを結成し天山・小島からIWGPタッグ王座を奪取した。12月11日、新日本プロレス大阪府立体育館大会で武藤の三冠王座に初挑戦。藤波はドラゴンスリーパー、ドラゴンスクリュー、足四の字、さらには武藤の得意技シャイニングウィザードを出すなど積極的に試合を展開。武藤はコーナー上段にいた藤波にシャイニングウィザードを放ち形勢逆転。15分32秒、最後は武藤のこの日6発目のシャイニングウィザードに敗れた。04年1月に胆石を手術。05年8月に51才ながら4年ぶりにG1に出場。8月6日には川田利明と対戦。飛龍裸絞めに逆さ押さえ込みと技を繰り出したが、顔面キック3連発に敗退。ケンドー・カシン、鈴木みのるに勝利してリーグ戦は2勝5敗に終わった。06年6月20日に新日本プロレスを退団。新団体「無我ワールド・プロレスリング」に参加。8月2日の後楽園ホールでのプレ旗揚げ戦で第1試合に出場し、マーク・マッカイに逆さ押さえ込みで勝利した。9月25日、無我の旗揚げシリーズ最終戦の後楽園ホール大会で西村と3本勝負で対戦。ラリアットやチョップ合戦のないクラシカルなムーブで観客を魅了。1本目は20秒で西村が首固めで勝利。2本目は13分12秒で藤波が足四の字固めで勝利。3本目は10分28秒に、藤波の足四の字固めを反転させた西村が裏四の字固めで勝利した。07年5月16日、大阪府立体育会館第2競技場大会で大阪プロレスのスペル・デルフィンと対戦。スイングDDTと大阪臨海アッパーをくらい苦戦したが、8分53秒、ドラゴン・スリーパーで勝利した。5月20日、無我の岡山県卸センター・オレンジホール大会で、国内3500試合出場記念試合として西村と対戦。西村のアピールで3本勝負になったこの試合。1本目を12分13秒、裏4の字固めで西村が勝利。2本目は5分42秒、首固めで藤波が勝利。3本目は3分18秒、卍固めで藤波が勝利した。07年10月に西村修が無我から離脱。12月3日、第2回DRAGON CUP1回戦で高岩竜一と対戦。11分53秒、ドラゴンスリーパーで勝利した。12月13日、後楽園ホール大会での準決勝でTAJIRIと対戦。グリーンミストを噴射され、イス攻撃やバズソーキックで苦戦したが、12分20秒、ドラゴンスリーパーで勝利。同日に行われた決勝では吉江豊と対戦。ドラゴンスクリュー、足4の字固め、ローキックで左足を攻めたが最後は13分59秒、ダイビングボディプレスに敗れた。西村の無我離脱をきっかけに、12月17日に団体名を「ドラディション」に変更することを発表。08年1月4日には新日本プロレスの東京ドーム大会での10人タッグマッチに出場。2月23日、大阪府立体育会館第2競技場でドラディションのプレ旗揚げ戦。メインで蝶野正洋と組んでグラン浜田、ヒロ斎藤組と対戦。14分43秒、ドラゴンスリーパーで浜田に勝利した。3月20日、船橋アリーナ大会でドラディションの旗揚げ戦。メインでヒロ斎藤と組んで吉江豊、南野タケシ組と対戦。19分、ヒロのダイビングセントーンで南野に勝利した。08年5月11日、アレナ・メヒコでの闘龍門自主興行「ドラゴマニア3」で、ウルティモ・ドラゴン、ミスティコと組んでアトランティス、ウルティモ・ゲレーロ、レネ・デュプリー組と対戦。ウルティモがアトランティスの逆片エビ固めでギブアップ負け。21年ぶりのメキシコマット登場だった。11月24日、IGFの愛知県体育館大会でタイガーマスクと対戦。新日本プロレス時代にもほとんど対戦経験がなかった相手だった。10分時間切れ引き分けに終わった。09年4月12日、ロックアップの後楽園ホール大会で長州と組んで藤原、大森組と対戦。9分39秒、長州のサソリ固めで藤原に勝利。
飛龍革命(1988年4月22日 沖縄・奥武山体育館大会での控室にて)
IWGP王者の猪木はベイダーとの2連戦が決定。この日程に藤波が異議を唱えたことから端を発し、藤波の「飛龍革命」がスタート。目標は「猪木越え」だった。
藤波「2連戦は無理。もう何年続くんだ。何年これが」
猪木「だったら破れよ。なんでおれにやらすんだ、おまえ」
藤波「だったら、やりますよ、おれが」
猪木「遠慮することはないって。リング上は闘いなんだからよ。先輩も後輩もない。遠慮されたら困る。なんで遠慮するんだ」
藤波「これは新日本プロレスの流れじゃないですか。そうじゃないですか」
猪木「じゃ、力でやれ、力で」
藤波「やります」
猪木「やれるのか、おい」
直後に、猪木が張り手。藤波も張り手を返す。藤波はハサミを出して自分の前髪を切る。 ・・・・・・この禅問答のような解読不能なやり取りと、突然の髪切りで印象的なシーンとなった。5月2日に左足骨折のアクシデントで猪木は王座返上。5月8日にベイダーとの王座決定戦で藤波が王者となった。5月27日に長州と無効試合のため王座預かりとなったが、6月24日に長州に勝利し、藤波は再び王座を獲得。6月26日にベイダーを破り、ついに8月8日に防衛戦で猪木と対戦。時間切れで引き分け、シングルでの連敗を7で止めた。この後、猪木はIWGP王座に挑戦することはなかったが、完全な形での「猪木越え」はならなかった。
後日、藤波は「新日本をおれが変えなければという強い気持ちがあったからね。以前の自分なら猪木さんに殴られたらしょぼくれていたけど、あの時は無意識に殴り返した。猪木さんがよろめくほどだった。髪を切ったことに大きな意味はなかったけど、なにかアピールしなければと思っていた」と語った。
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