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バロン・フォン・ラシク
BARON VON RASCHKE


本名:ジェームス・ラシク
1940年7月30日
ネブラスカ州オマハ出身
188p 118kg
タイトル歴:WWA世界ヘビー AWA世界タッグ ジョージア・ヘビー
得意技:ブレーンクロー

通称ナチの妖獣。ネブラスカ大学ではアマレスで活躍。レスリング部のキャプテンを務めていた。1年間の兵役(陸軍)を終えて、オマハのプロモーターだったジョー・デュセックに誘われてプロレス入り。ミネソタにあったバーン・ガニアのレスリングスクールに入り、65年9月にデビュー。68年にニューヨークに入る。これを機に髪をそりナチ党員の悪役レスラーに変身。ブルーノ・サンマルチノのWWFヘビー級王座に挑戦し脚光を浴びる。 70年3月7日、インディアナ州インディアナポリスでWWA世界ヘビー級王座を獲得。 71年からはNWA王者時代のドリー・ファンク・ジュニアと抗争。11月に国際プロレスに初来日。11月12日、銚子市体育館大会でストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。1本目は25分7秒、逆エビ固めで小林の勝利。2本目は7分41秒、ブレーンクローでラシクが勝利。3本目は6分49秒、小林のバックドロップが崩れて両者KO。引き分けに終わった。11月26日、ミシガン州デトロイトでWWA世界ヘビー級王座2度目の獲得。 72年3月の「第4回IWAワールドシリーズ」では上位に進出。6月2日、インディアナ州インディアナポリスでWWA世界ヘビー級王座3度目の獲得。 75年12月に全日本プロレスのオープン選手権に出場。12月6日、開幕戦の足立区体育館大会でジャイアント馬場と対戦。8分9秒、16文キックに敗れた。12月7日、川越市民体育館大会でマイティ井上と対戦し、8分53秒、リングアウト勝ち。12月8日、呉市体育館大会でラッシャー木村と対戦し、11分14秒、ブレーンバスターに敗れた。12月9日、福岡九電記念体育館大会でドリー・ファンク・ジュニアと対戦し、14分33秒、ダブルアームスープレックスに敗れた。12月10日、岐阜市民センター体育館大会でヒロ・マツダと対戦し、11分49秒、両者リングアウト。12月11日、日本武道館での力道山追善大会でラッシャー木村と対戦し、11分5秒、逆エビ固めに敗れた。この大会後、リーグ戦の途中で帰国した。全日本プロレスには通算4回来日。77年3月20日、ノースカロライナ州グリーンズボロでジャイアント馬場のPWF王座に挑戦。1本目は馬場の勝利、2本目はブレーンクローでラシクの勝利、3本目は馬場が勝利してタイトル奪取に失敗した。5月30日、全日本プロレスの札幌中島スポーツセンター大会でジャンボ鶴田のUN王座に挑戦。1本目は12分31秒にフォール勝ち。2本目は2分28秒にフォール負け。3本目は3分5秒に回転エビ固めに敗れた。80年6月8日、アトランタでジョージア・ヘビー級王座を獲得。84年5月にクラッシャー・リソワスキーと組んでAWA世界タッグ王座を獲得。8月にロード・ウォリアーズに敗れて王座陥落。その後はNWAクロケット・プロでイワン・コロフとタッグを組んで活躍した。94年に引退。引退後はミネソタ州の片田舎で教師をしていたらしい。ミネソタ州ワーバシャでボニー夫人、長男のカール、長女のハイディ、孫のエレノアらに囲まれて余生を過ごした。
― 全日本に来ていたAWA系では、バロン・フォン・ラシクも忘れられない存在ですね。
「あいつはコロラド大学のアマレスのキャプテンをしてたんだぜ。学識があるんだ。いつも難しい書物を読んでいるよ。あのナチスの残忍なギミックも自分でリアルに見せるために、とことん研究し尽くしたものらしい。ああいうスタイルを貫くためにレスリングができるのを隠して試合してたんだよ。だから、ラシクはベビーフェースもこなせたんだ。クローだって、あれはフリッツのアイアン・クローのマネじゃないぜ。ラシクはタコみたいに、リーチもコンパスも長いんだ。それにスパンも大きくて握力がある。だから、自分自身の体型的な特徴をよく理解しているんだよ。それにあいつは身体が柔らかいんだ。だから、アマレスも強かったんだろうな。素顔は、いい奴でね。あいつの実家に行って両親と食事をしたこともあるんだよ。だから、日本に来た時は俺の家でメシを食わせてさ。日本料理に感心していたよ」
(Gスピリッツ vol.25 キム・ドク(タイガー戸口)のインタビューより)

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