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ハーリー・レイス
HARLEY RACE


本名:ハーリー・リーランド・レイス
1943年4月11日
ミズーリ州メアリービル出身
185p 115kg
タイトル歴:NWA世界ヘビー AWA世界タッグ ミズーリ・ヘビー セントラルステーツ・ヘビー PWFヘビー UNヘビー WWA世界ヘビー(シカゴ版) ジョージア・ヘビー
得意技:ダイビングヘッドバット パイルドライバー ブレーンバスター

「ミスタープロレス」の称号を受けた名レスラー。高校を1年で中退。デビュー前はミズーリ州サバンナにあるスタニスラウス・ズビスコ(20年代の世界ヘビー級王者)の農場で働きながらレスリングの指導を受ける。弟のウラディック・ズビスコの指導も受けた。ガスト・カラスの紹介でカーニバルレスリングに登場。2年後、カラスがセントジョセフのプロモーターでもあったことから、60年ごろから本格的なプロレスラーとしてデビュー。大迫力のバンプと豪快なダイビング・ヘッドバッドを武器に活躍。65年1月にラリー・ヘニングと組んでAWA世界タッグ王座を獲得。68年2月に日本プロレスに初来日。2月26日、大阪府立体育会館大会でディック・ザ・ブルーザーと組んで馬場猪木組のインターナショナル・タッグ王座に挑戦。1本目は13分14秒、反則負け。2本目は1分56秒、ブルーザーが馬場にフォール勝ち。3本目は6分10秒、馬場の逆片エビ固めにレイスが敗れた。その後、NWAに進出し、4月5日、セントラルステーツ・ヘビー級王座を獲得。69年、テキサス州アマリロでドリー・ファンク・シニアを補佐してブッカーとしても活動。72年9月、NWA王座への登竜門とされるミズーリ州ヘビー級王座を獲得。73年、ジョージア州アトランタのプロモーターであるジム・バーネットを補佐してブッカーとしても活躍。5月24日、カンザスシティでドリー・ファンク・ジュニアからNWA世界ヘビー級王座を奪取。73年から84年の12年間で通算7度もNWA王座に就いている。全日本プロレスの常連としてジャイアント馬場、ジャンボ鶴田らと名勝負を繰り広げた。74年9月13日、アトランタでジョージア・ヘビー級王座を獲得。75年、フロリダのプロモーターであるエディ・グラハムを補佐してブッカーとしても活躍。78年1月20日、全日本プロレスの帯広市総合体育館大会でジャンボ鶴田を相手にNWA王座の防衛戦。1本目は28分9秒、ブレーンバスターで勝利。2本目は16分30秒、首固めにフォール負け。3本目は時間切れ引き分け。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。82年4月24日、インディアナ州インディアナポリスでWWA世界ヘビー級王座を獲得。86年からWWFに登場。「キング・オブ・ザ・リング」トーナメントに出場し、決勝でペドロ・モラレスを破り優勝。「キング」の称号を手に入れた。88年にはハルク・ホーガンと抗争。89年1月15日にハクに敗れて「キング」の称号を手放す。この試合を最後にWWFを離脱。4月、全日本プロレスに現役として最後の来日。その後、WCWでレックス・ルガーベイダーらのマネージャーを務めた。 95年1月、自動車事故で大ケガを負い、WCWを離脱。96年12月7日、東京プロレスの両国国技館大会に特別立会人として来日。試合を終えたブッチャーが場外で襲いかかったが、パンチで退散させた。99年7月にミズーリ州エルドンで、レスリングスクール「WLW」(ワールド・リーグ・レスリング)を設立。卒業生を中心にミニ団体WLWを運営。WLWはノアと提携。02年に渡米した大森隆男もこの団体にWLWチャンピオンとしてレギュラー参戦した。03年、息子のジェイソン・ジョーンズ(後のリーランド・レイス)がデビュー。10年11月、ノアのGHCタイトル管理委員長に就任。13年12月7日、ノアの有明コロシアム大会で立会人として来日。12月14日から17日にかけて巡業にも同行して記念撮影会を行った。19年8月1日、肺がんによる合併症のため死去。
“伝説レスラー”ハーリー・レイスさん豪快秘話 坂口氏「動きが多彩。不世出の名レスラー」
(東スポWeb 2019年08月3日16時30分より)
 “美獣”の異名で全日本プロレスやWWF(現WWE)などで活躍し、肺がんによる合併症で死去していたことが1日(日本時間2日)に発表されたハーリー・レイスさん(享年76)の訃報に、日本マット界からも悲しみの声が上がった。“世界の荒鷲”こと新日本プロレスの坂口征二相談役(77)は日本プロレス時代からの浅からぬ因縁を告白。大日本プロレス会長で現役最年長レスラーのグレート小鹿(77)も米国時代の逸話などを披露し、現代プロレスの流れを創った故人をしのんだ。
 レイスさん死去の報を受け、全世界のプロレス関係者、ファンは悲しみに暮れた。ライバル関係にあった“狂乱の貴公子”ことリック・フレアー(70)は公式ツイッターで「今日、我々はワンアンドオンリーの世界王者を失った。ハーリー・レイスがいなければ、リック・フレアーもいなかった。安らかに眠れ、わが友よ」などとつづり、偉大な先輩をしのんだ。
 日本とも縁が深いレイスさんだっただけに、同世代の日本人レスラーたちも哀悼の意を示した。中でも真っ先に反応したのは坂口氏。故人が1972年3月に最後の日本プロレス(翌年4月崩壊)来日を果たした際、団体の看板だったUNヘビー級王者として初挑戦を受けた(72年3月13日仙台)。「年齢もほとんど同じだったからね。試合運びがうまい選手だった。大きな動きから細かい動きまでが実に多彩でね・・・」と今でも強く印象に残っているという。
 3本勝負で1本目は首固めでレイスさんが取り、2本目は両者リングアウト。決勝ラウンドは坂口氏が取り、同年2月に米国で初戴冠した王座の初防衛に成功。この時、レイスさん29歳、坂口氏30歳の春だった。故人にとっては最後の日プロ参戦となり、翌年5月にはNWA世界ヘビー級王座を初戴冠。坂口氏とのUN戦が出世試合になった形だ。
 73年3月、坂口氏はアントニオ猪木率いる新日本に合流。レイスさんは同年2月、NWAと提携していた全日本に初参戦した。両雄の運命は激しい時代の波に動かされ、再びリング上で戦うことはなかった。「その後もアメリカに遠征した際、会場で顔を合わせると、いつも「元気か」とニコニコ笑っていた。不世出の名レスラーだと思います。安らかにお眠りください」と合掌した。
 67年から4年間、米国で活躍していた小鹿にとってもレイスさんとの思い出は尽きない。「リングの中では最高のレスラー。リングを降りると悪ガキ。そんな選手だった」という。
 若いころからヘビースモーカー。向こう気が強くてケンカっ早い。ボートに乗ってスピードを出し過ぎて事故を起こす。小鹿とはギャラの件でもめ、口論にもなった。だがレイスさんの持つ情報は膨大で、小鹿が「今度この地域の大会に出るんだけど」って相談すると「その団体はこういう選手がいて・・・。こいつを頼れば・・・」って詳しく選手のことや団体の事情を教えてくれた。
 もちろん、レスラーとしては尊敬することばかりだった。ブレーンバスターを長滞空式にして、観客に「1、2、3・・・」と数えさせたり、コーナーからのダイビングヘッドバットをしたのも「彼が最初なんじゃないか」(小鹿)。テクニックもありつつ観客に分かりやすい大技をリングに持ち込み「観客の目を常に意識した試合をしていた。理屈に合った攻め方をしていて。強さの中にテクニックがあったな」と振り返る。
 プロレスを愛し、新たなプロレスを常に模索した希代のメインイベンター。レイスさんが日本に残した足跡は、今も輝かしい光を放っている。

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