| <<アントニオ猪木年表>> |
| 1960年4月 |
ブラジル遠征中の力道山にスカウトされて日本プロレス入門。 |
| 60年9月30日 |
台東区体育館の大木金太郎戦でデビュー。7分9秒、逆腕固めで敗れた。 |
| 62年5月 |
第4回ワールドリーグ戦に参戦。7戦全敗に終わる。 |
| 63年5月 |
第5回ワールドリーグ戦に参戦。5戦全敗に終わる。 |
| 64年3月 |
豊登と共に初の海外遠征。ハワイをサーキット後、単身アメリカへ遠征。太平洋岸エリアから、中西部のカンサス、ミズーリを転戦。テキサスではデューク・ケオムカとタッグを結成。 |
| 65年10月13日 |
テキサス州ヒューストンでケオムカと組んでフリッツ・フォン・エリック、キラー・カール・コックス組を破り、AWA世界タッグ王座(本家のAWAとは関係のないローカル版)を獲得。 |
| 66年1月 |
テネシーに転戦し、ヒロ・マツダと組んでメディックス1号、2号組を破り、NWA世界タッグ王座(ローカル版)を獲得。 |
| 66年3月 |
凱旋帰国直前に、社長を追われた豊登とハワイで会談。ワールドリーグ戦に参加する予定だったが、豊登に説得されて新団体設立に参加。 |
| 66年4月23日 |
帰国。羽田空港での記者会見で豊登と共に東京プロレス設立を発表。 |
| 66年10月12日 |
蔵前国技館で東京プロレスの旗揚げ戦。メインイベントでジョニー・バレンタインに勝利。 |
| 66年11月29日 |
大阪球場大会で、ジョニー・バレンタインに勝利してUSヘビー級王座を獲得。 |
| 67年4月 |
東京プロレスが1月5日の興行を最後に崩壊。日本プロレスに復帰。 |
| 67年10月31日 |
大阪府立体育館でジャイアント馬場と組んでインターナショナルタッグ王者のターザン・タイラー、ビル・ミラー組に挑戦。勝利して王座獲得。その後も何度かインターナショナルタッグ王座を奪われたが、リターンマッチで王座奪回。通算で29度の防衛に成功。馬場とのタッグはBI砲と呼ばれた。BI砲の通算戦績は162勝14敗6引き分け。 |
| 68年5月 |
第10回ワールドリーグ戦に参戦。キラー・コワルスキー、ジェス・オルテガに引き分け、フレッド・ブラッシーに敗れてリーグ戦で2位となり、決勝進出できなかった。 |
| 69年5月16日 |
第11回ワールドリーグ戦でクリス・マルコフを17分45秒、卍固めで破り優勝。 |
| 69年12月2日 |
NWA世界王者のドリー・ファンク・ジュニアに挑戦。時間切れ引き分け。 |
| 71年3月 |
ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムでジョン・トロスを破りUNヘビー級王座を獲得。69年7月から猪木がメインで日本プロレスの放送がテレビ朝日でスタート。馬場のインター・ヘビー級に匹敵するシングル王座を猪木にも与えようという背景があった。 |
| 71年11月 |
女優の倍賞美津子と結婚(87年に離婚)。 |
| 71年12月 |
「日本プロレス乗っ取り事件」を起こす。経理士を連れて日本プロレスに乗りこみ、不透明な資金運用を正そうとする狙いがあったが、計画は途中で頓挫した。その結果、猪木は日本プロレスから追放処分を受ける。 |
| 72年3月6日 |
大田区体育館で新日本プロレスの旗揚げ戦。メインでカール・ゴッチと対戦。卍固めをかわされ、ダブルアームスープレックスを狙ったところを逆に投げられ、15分40秒、リバース・スープレックスに敗れた。 |
| 72年10月4日 |
蔵前国技館大会でカール・ゴッチにリングアウト勝利。実力世界一のベルトを獲得。 |
| 73年10月5日 |
新宿伊勢丹前でタイガー・ジェット・シンが猪木を路上で襲撃。 |
| 73年12月10日 |
東京体育館大会でNWF王者ジョニー・パワーズに挑戦。3本勝負の1本目は20分26秒、コブラツイストで猪木が勝利。2本目は5分49秒、8の字固めでパワーズが勝利。3本目は5分10秒、卍固めで猪木が勝利。NWF世界ヘビー級王座を獲得。 |
| 74年3月19日 |
国際プロレスのエースだったストロング小林と対戦。29分30秒、バックドロップからのジャーマンスープレックス・ホールドで勝利してNWF世界王座を防衛。「昭和巖流島の決闘」として日本人同士の頂上対決として話題を呼んだ。この試合でのジャーマンスープレックスは、勢いで猪木の両足が一瞬浮き、首だけで小林の全体重を支えた印象的な一撃だった。 |
| 74年6月26日 |
タイガー・ジェット・シンと対戦。3本勝負の1本目は両者リングアウト。2本目は鉄柱攻撃とアームブリーカーでシンの腕を粉砕。9分46秒、レフリーストップ勝ち。実際は骨折したわけではなかった。 |
| 74年10月10日 |
蔵前国技館で大木金太郎と対戦。猪木はゴング前に先制の右パンチ。大木は強烈な頭突きの連打で反撃。13分13秒、バックドロップで勝利。 |
| 76年2月6日 |
柔道のミュンヘン五輪金メダリスト、ウイリアム・ルスカと初の異種格闘技戦。20分56秒、バックドロップ3連発でTKO勝利。 |
| 76年6月26日 |
日本武道館で、モハメド・アリと対戦。単調な試合内容のため「世紀の凡戦」といわれた。15R引き分けに終わる。 |
| 76年12月12日 |
パキスタンのカラチでアクラム・ペールワンと対戦。4〜5万人の観衆の前で、「真剣勝負」を展開。1Rで腕ひしぎ逆十字を決めたがラウンド終了のゴング。2Rに噛みつきで反撃したアクラムに対し、猪木はサミングを繰りだした。3R1分5秒、猪木のチキンウイング・アームロックでアクラムが左腕を脱臼し、レフリーストップ勝利。 |
| 77年8月2日 |
日本武道館でプロ空手世界スーパーヘビー級王者、ザ・モンスターマンと異種格闘技戦。5R1分38秒、ギロチンドロップでKO勝利。 |
| 77年10月25日 |
ボクサーのチャック・ウエップナーと異種格闘技戦。6R1分35秒、逆エビ固めで勝利。 |
| 78年11月 |
11月7日から11月29日まで「欧州世界選手権シリーズ」。ローラン・ボックのプロモートで、ドイツを中心にサーキット。20戦して12勝1敗7引き分け。最終日はエキシビションマッチに登場した。11月26日にシュツットガルトでローランボックと対戦し、4分10Rを戦って判定負け。ボックに圧倒された。この試合を中継録画で観戦した日本のファンから「シュツットガルトの惨劇」と後々まで語り継がれることになった。 |
| 79年8月26日 |
東京スポーツ新聞社主催で「夢のオールスター戦」開催。馬場と組んでブッチャー、シン組と対戦。13分3秒、猪木の逆さ押さえ込みがシンに決まり勝利。試合後、猪木は馬場にシングルでの対戦をアピールしたが、その後、両者の試合が行われることはなかった。 |
| 79年11月30日 |
徳島市体育館でボブ・バックランドを破り、WWF世界ヘビー級王座を獲得。 |
| 80年2月27日 |
日本武道館で極真空手のウイリー・ウイリアムスと異種格闘技戦。リングの周囲を新日本と極真空手の関係者が取り囲む異様な雰囲気の中での試合となった。2Rに両者リングから転落。両者リングアウトで決着しかけたが、試合続行。4Rに猪木はウィリアムスに腕ひしぎ逆十字固めをかけたままリング下に両者転落。ここで両陣営のセコンドが乱入。大混乱のまま4R1分24秒、両者リングアウトで引き分け。 |
| 82年11月4日 |
ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇を相手に1対3の変則マッチ。2人に勝利したが、木村にリングアウト負け。 |
| 83年6月2日 |
蔵前国技館での第1回IWGP決勝戦でハルク・ホーガンと対戦。アックス・ボンバーをくらって失神。リングアウト負け。 |
| 83年8月 |
新日本プロレスでクーデター騒動。8月21日に望月和治常務取締役と山本小鉄取締役から退任を迫られた猪木が25日に社長職辞任。26日には坂口が副社長職を辞任。しかしクーデター派の歩調が合わず、テレビ朝日の重役からテレビ放映解約の意向も受けて短期間でクーデターは失敗。11月1日に新日本プロレス事務所で臨時株主総会が開かれ、猪木は代表取締役社長に復帰。坂口も取締役副社長に復帰。この事件からタイガーマスクの離脱、UWF旗揚げ、長州力のジャパンプロレス旗揚げの火種を生んだ。 |
| 86年6月17日 |
アンドレ・ザ・ジャイアントに世界初のギブアップ勝ち。 |
| 86年10月9日 |
レオン・スピンクスと異種格闘技戦。8R1分23秒にフォール勝ち。 |
| 87年10月4日 |
マサ斎藤と巖流島で対戦。観客不在の死闘を展開。2時間5分14秒、スリーパーホールドで勝利。 |
| 88年4月 |
沖縄キャンプ中に、陸上トレーニングの際に左足甲を骨折。IWGP王座返上。 |
| 88年7月22日 |
長州力に初めてフォール負け。 |
| 88年8月8日 |
横浜文化体育館大会で藤波のIWGP王座に挑戦。「負けたら引退」を宣言してリングに上がったが、45歳の年齢ながらも好ファイトを展開。60分フルタイムドローで引き分け。この試合以後、IWGP王座に挑戦することはなかった。 |
| 89年4月24日 |
初の東京ドーム大会のメインイベントでショータ・チョチョシビリと異種格闘技戦。円形リングで行われた。5R1分20秒、裏投げ3連発にKO負け。初の異種格闘技戦の敗戦となった。 |
| 89年5月25日 |
大阪城ホールでショータ・チョチョシビリと再戦。2R1分7秒、裏十字固めで勝利。 |
| 89年7月24日 |
スポーツ平和党を設立し、「消費税に延髄斬り」、「国会に卍固め」をキャッチフレーズに、選挙運動を展開。参院選に当選。初の国会議員レスラーとなった。 |
| 92年1月4日 |
東京ドーム大会で馳浩と対戦。1年3ヶ月ぶりの試合となったが、スリーパーで失神させるなど迫力ある攻防を展開。失神から回復したとたんに浴びせ蹴り。さらにキレイなダブルアームスープレックスを見せた。裏投げ4連発でピンチに陥ったが、最後は10分9秒、卍固めで勝利。 |
| 95年4月28日 |
北朝鮮で2日間で38万人の観衆を集め、「平和のための平壌国際スポーツ・文化祭典」を開催。リック・フレアーに延髄斬りで勝利。 |
| 98年4月4日 |
東京ドーム大会で引退試合。ドン・フライと対戦。4分9秒、コブラツイストからのグランドコブラで勝利。「最後に私から皆様にメッセージを贈りたいと思います。人は歩みを止めたときに、そして挑戦をあきらめたときに年老いていくのだと思います。この道を行けばどうなるものか危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ。行けば分かるさ。ありがとう!」と試合後に挨拶。 |
| 07年6月29日 |
両国国技館で新団体IGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)の旗揚げ戦。出場選手のブッキングやカード編成に難航し、大会当日に対戦カードが発表されるという珍しい大会となった。カート・アングル対ブロック・レスナーのメインイベント終了後にリングに立つ。「猪木のイチオシ、今宵はプロレスか、はたまた狂言か。信じるか信じないかはあなた次第。大変な状況下の中で、無事終えることができました。今日は十字架を用意しておきながら、はりつけにならなくてよかったのかな。いろんなストレスの中で熱いメッセージを送ろうと、やらない予定でしたが、やっぱりやらないといけないのか」とスピーチし、「いくぞ、1、2、3、ダァーッ!」で大会を締めた。 |
| 07年12月20日 |
IGFの有明コロシアム大会に来場。第1試合の前にサンタクロースに扮した猪木が登場。「元気ですかー! 元気があれば何でもできる。元気があればバカにもなれる。この年の瀬の忙しい時期に大会を組んでみましたが、こんな時に来てくれるのはよっぽどモテないヤツか、ヒマなヤツか、それとも猪木のプロレスが飯よりも好きなヤツか・・・。今年もいろんなことがありましたが、世の中に元気を送ろうということで、この中に元気ボールを入れてきました」猪木は白い袋の中から、プレゼント交換権のあるボールを客席へ投げ入れる。「改めて、元気ですかー!会場に足を運んでくださいましてありがとうございます。今大会も二転三転し、皆さんにご迷惑おかけしましたが、なんとなくそれがIGFの売りになってしまっています。小川のカード決まらなかったり 安田が自殺未遂を起こしたり、ブラジルからお化けが3匹やってきたり。IGFのリングから元気を発信いたします。それでは始めるぞー!」とあいさつした。メインの小川対安田の試合では、KOされた安田を攻撃し続ける小川めがけて乱入し、小川を魔性のスリーパーで絞め落とす。安田にもストンピング。回復し、猪木につかみかかった小川を安田が割って入り、一触即発の状況のまま大会終了。試合後のマイクで以下の挨拶。「やるなら殺せ!これから次に上がってくるヤツ、そういう覚悟で上がってこいよ。今日はよかったか悪かったかオレには分からない。一寸先は闇と言うけれど、オレにとって一寸先はハプニング。来年はすげえことを起こすぞ!皆さんも元気で!行くぞー、1、2、3、ダーッ! 」主催者発表では6233人だったが、実際には半分以下の観客しかいない大会だった。 |
| 08年4月12日 |
IGFの大阪府立体育会館大会に来場。大会中盤での挨拶では「おれも人生、そろそろ迎えが来るのかなと。最近一番困っていることは、ジャイアント馬場からの挑戦状。三途の川で待っているという。それに応えようかどうしようか困っています」と語る場面もあった。メインでかみ合わない試合を見せた小川に対し、リングサイドから「ちゃんとやれよ!」、「天下取れるかよ、こんなんでよ!」と張り手。大会後には「まだまだIGFは魂が入ってねぇなと。この次はもっともっとみなさんの期待に応えたいと思います(後略)」と挨拶。
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| 09年9月28日 |
腰痛の一種である腰椎すべり症の手術。10月13日に退院。 |