レスラーノート

アントニオ猪木

本名:猪木寛至
1943年2月20日
神奈川県横浜市鶴見区生麦町出身
190cm 102kg 血液型:AB型

通称
燃える闘魂
タイトル歴
IWGPヘビー
NWFヘビー
得意技
延髄斬り
卍固め

デビュー 1960年 9月30日 引退 1998年4月4日
通称「燃える闘魂」。男7人女6人兄弟の6男。少年時代から陸上競技に熱中。57年に一家揃ってブラジルに移住。60年4月にブラジル遠征中の力道山にスカウトされて日本プロレス入門。同年9月30日、台東区体育館の大木金太郎戦でデビュー。馬場と同日デビューで、馬場は田中米太郎に股裂きで勝利、猪木は大木の逆腕固めに敗れている。豊登が社長の時、64年3月に米国へ初遠征。66年3月、凱旋帰国直前に、社長を追われた豊登とハワイで会談。ワールドリーグ戦に参加する予定だったが、豊登に説得されて新団体設立に参加。帰国後10月12日に、東京プロレスを旗揚げ。67年4月に日本プロレスに復帰し、馬場との「BI砲」で黄金時代を築いた。71年12月、「日本プロレス乗っ取り事件」を起こす。経理士を連れて日本プロレスに乗りこみ、不透明な資金運用を正そうとする狙いがあったが、計画は途中で頓挫した。その結果、猪木は日本プロレスから追放処分を受ける。72年3月、新日本プロレスを旗揚げ。73年12月、NWFヘビー級王座を獲得し、幾多の名勝負を展開。アリ、ルスカらとの異種格闘技戦も実現させた。89年の参院選に当選し初の国会議員レスラーとなり、平和イベントを成功させるなど活躍。94年5月よりファイナル・カウントダウンを開始。98年4月4日、東京ドームで38年間のレスラー生活にピリオドを打った。ロサンゼルスに移住しアメリカの市民権を取得。05年11月、保有していた新日本プロレスの株式51.5%をゲーム会社ユークスに売却し、新日本プロレスのオーナーから降りた。07年に新団体IGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)を設立。6月29日に両国国技館で旗揚げ戦を行った。
アントニオ猪木年表

60年4月

ブラジル遠征中の力道山にスカウトされて日本プロレス入門。

60年9月30日

台東区体育館の大木金太郎戦でデビュー。7分9秒、逆腕固めに敗れた。

62年5月

第4回ワールドリーグ戦に参戦。7戦全敗に終わる。

62年11月

猪木完至からアントニオ猪木に改名。

63年5月

第5回ワールドリーグ戦に参戦。5戦全敗に終わる。

64年3月

豊登と共に初の海外遠征。ハワイをサーキット後、単身アメリカへ遠征。太平洋岸エリアから、中西部のカンサス、ミズーリを転戦。テキサスではデューク・ケオムカとタッグを結成。

65年10月13日

テキサス州ヒューストンでケオムカと組んでフリッツ・フォン・エリックキラー・カール・コックス組を破り、AWA世界タッグ王座(本家のAWAとは関係のないローカル版)を獲得。

66年1月

テネシーに転戦し、ヒロ・マツダと組んでメディックス1号、2号組を破り、NWA世界タッグ王座(ローカル版)を獲得。

66年3月

凱旋帰国直前に、社長を追われた豊登とハワイで会談。ワールドリーグ戦に参加する予定だったが、豊登に説得されて新団体設立に参加。

66年4月23日

帰国。羽田空港での記者会見で豊登と共に東京プロレス設立を発表。

66年10月12日

蔵前国技館で東京プロレスの旗揚げ戦。メインイベントでジョニー・バレンタインに勝利。

66年11月29日

大阪球場大会で、ジョニー・バレンタインに勝利してUSヘビー級王座を獲得。

67年4月

東京プロレスが1月5日の興行を最後に崩壊。日本プロレスに復帰。

67年10月31日

大阪府立体育館でジャイアント馬場と組んでインターナショナルタッグ王者のターザン・タイラービル・ミラー組に挑戦。勝利して王座獲得。その後も何度かインターナショナルタッグ王座を奪われたが、リターンマッチで王座奪回。通算で29度の防衛に成功。馬場とのタッグはBI砲と呼ばれた。BI砲の通算戦績は162勝14敗6引き分け。

68年5月

第10回ワールドリーグ戦に参戦。キラー・コワルスキー、ジェス・オルテガに引き分け、フレッド・ブラッシーに敗れてリーグ戦で2位となり、決勝進出できなかった。

69年5月16日

第11回ワールドリーグ戦でクリス・マルコフを17分45秒、卍固めで破り優勝。

69年12月2日

NWA世界王者のドリー・ファンク・ジュニアに挑戦。時間切れ引き分け。

71年3月

ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムでジョン・トロスを破りUNヘビー級王座を獲得。69年7月から猪木がメインで日本プロレスの放送がテレビ朝日でスタート。馬場のインター・ヘビー級に匹敵するシングル王座を猪木にも与えようという背景があった。

71年11月

女優の倍賞美津子と結婚(87年に離婚)。

71年12月

「日本プロレス乗っ取り事件」を起こす。経理士を連れて日本プロレスに乗りこみ、不透明な資金運用を正そうとする狙いがあったが、計画は途中で頓挫した。その結果、猪木は日本プロレスから追放処分を受ける。

72年3月6日

大田区体育館で新日本プロレスの旗揚げ戦。メインでカール・ゴッチと対戦。卍固めをかわされ、ダブルアームスープレックスを狙ったところを逆に投げられ、15分40秒、リバース・スープレックスに敗れた。

72年10月4日

蔵前国技館大会でカール・ゴッチにリングアウト勝利。実力世界一のベルトを獲得。

73年10月5日

新宿伊勢丹前でタイガー・ジェット・シンが猪木を路上で襲撃。

73年12月10日

東京体育館大会でNWF王者ジョニー・パワーズに挑戦。3本勝負の1本目は20分26秒、コブラツイストで猪木が勝利。2本目は5分49秒、8の字固めでパワーズが勝利。3本目は5分10秒、卍固めで猪木が勝利。NWF世界ヘビー級王座を獲得。

74年3月19日

国際プロレスのエースだったストロング小林と対戦。29分30秒、バックドロップからのジャーマンスープレックス・ホールドで勝利してNWF世界王座を防衛。「昭和巖流島の決闘」として日本人同士の頂上対決として話題を呼んだ。この試合でのジャーマンスープレックスは、勢いで猪木の両足が一瞬浮き、首だけで小林の全体重を支えた印象的な一撃だった。

74年6月26日

タイガー・ジェット・シンと対戦。3本勝負の1本目は両者リングアウト。2本目は鉄柱攻撃とアームブリーカーでシンの腕を粉砕。9分46秒、レフリーストップ勝ち。実際は骨折したわけではなかった。

74年10月10日

蔵前国技館で大木金太郎と対戦。猪木はゴング前に先制の右パンチ。大木は強烈な頭突きの連打で反撃。13分13秒、バックドロップで勝利。

76年2月6日

柔道のミュンヘン五輪金メダリスト、ウイリアム・ルスカと初の異種格闘技戦。20分56秒、バックドロップ3連発でTKO勝利。

76年6月26日

日本武道館で、モハメド・アリと対戦。単調な試合内容のため「世紀の凡戦」といわれた。15R引き分けに終わる。

76年12月12日

パキスタンのカラチでアクラム・ペールワンと対戦。4〜5万人の観衆の前で、「真剣勝負」を展開。1Rで腕ひしぎ逆十字を決めたがラウンド終了のゴング。2Rに噛みつきで反撃したアクラムに対し、猪木はサミングを繰りだした。3R1分5秒、猪木のチキンウイング・アームロックでアクラムが左腕を脱臼し、レフリーストップ勝利。

77年8月2日

日本武道館でプロ空手世界スーパーヘビー級王者、ザ・モンスターマンと異種格闘技戦。5R1分38秒、ギロチンドロップでKO勝利。

77年10月25日

ボクサーのチャック・ウエップナーと異種格闘技戦。6R1分35秒、逆エビ固めで勝利。

78年4月

第1回MSGシリーズに参戦。

78年5月30日

大阪府立体育会館大会での決勝でアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。16分32秒、カナディアンバックブリーカーをリバーススープレックスに切り返してリングアウト勝ち。リーグ戦に優勝した。

78年11月

11月7日から11月29日まで「欧州世界選手権シリーズ」。ローラン・ボックのプロモートで、ドイツを中心にサーキット。20戦して12勝1敗7引き分け。最終日はエキシビションマッチに登場した。11月26日にシュツットガルトでローランボックと対戦し、4分10Rを戦って判定負け。ボックに圧倒された。この試合を中継録画で観戦した日本のファンから「シュツットガルトの惨劇」と後々まで語り継がれることになった。

79年4月

第2回MSGシリーズに参戦。

79年6月7日

蔵前国技館大会での決勝でスタン・ハンセンと対戦。9分3秒、ダイビング・ボディシザースドロップで勝利して連続優勝。

79年8月26日

東京スポーツ新聞社主催で「夢のオールスター戦」開催。馬場と組んでブッチャー、シン組と対戦。13分3秒、猪木の逆さ押さえ込みがシンに決まり勝利。試合後、猪木は馬場にシングルでの対戦をアピールしたが、その後、両者の試合が行われることはなかった。

79年11月30日

徳島市体育館でボブ・バックランドを破り、WWF世界ヘビー級王座を獲得。

80年2月27日

日本武道館で極真空手のウイリー・ウイリアムスと異種格闘技戦。リングの周囲を新日本と極真空手の関係者が取り囲む異様な雰囲気の中での試合となった。2Rに両者リングから転落。両者リングアウトで決着しかけたが、試合続行。4Rに猪木はウィリアムスに腕ひしぎ逆十字固めをかけたままリング下に両者転落。ここで両陣営のセコンドが乱入。大混乱のまま4R1分24秒、両者リングアウトで引き分け。

80年4月

第3回MSGシリーズに参戦。

80年6月5日

蔵前国技館大会での決勝でスタン・ハンセンと対戦。7分49秒、反則勝ち。3連覇を達成した。

81年5月

第4回MSGシリーズに参戦。

81年6月4日

蔵前国技館大会で決勝進出をかけてタイガー・ジェット・シンと対戦。18分34秒、両者リングアウト。ランバージャックデスマッチで延長戦が行われ、3分15秒、反則勝ち。同日の決勝でハンセンと対戦。7分45秒、リングアウト勝ち。4連覇を達成した。

82年3月

第5回MSGシリーズに参戦。2位で決勝進出となったが、ヒザを痛めて4月1日の決勝戦を欠場した。

82年11月4日

ラッシャー木村アニマル浜口寺西勇を相手に1対3の変則マッチ。2人に勝利したが、木村にリングアウト負け。

83年6月2日

蔵前国技館での第1回IWGP決勝戦でハルク・ホーガンと対戦。アックス・ボンバーをくらって失神。リングアウト負け。

83年8月

新日本プロレスでクーデター騒動。8月21日に望月和治常務取締役と山本小鉄取締役から退任を迫られた猪木が25日に社長職辞任。26日には坂口が副社長職を辞任。しかしクーデター派の歩調が合わず、テレビ朝日の重役からテレビ放映解約の意向も受けて短期間でクーデターは失敗。11月1日に新日本プロレス事務所で臨時株主総会が開かれ、猪木は代表取締役社長に復帰。坂口も取締役副社長に復帰。この事件からタイガーマスクの離脱、UWF旗揚げ、長州力のジャパンプロレス旗揚げの火種を生んだ。

86年6月17日

アンドレ・ザ・ジャイアントに世界初のギブアップ勝ち。

86年10月9日

レオン・スピンクスと異種格闘技戦。8R1分23秒にフォール勝ち。

87年10月4日

マサ斎藤と巖流島で対戦。観客不在の死闘を展開。2時間5分14秒、スリーパーホールドで勝利。

88年4月

沖縄キャンプ中に、陸上トレーニングの際に左足甲を骨折。IWGP王座返上。

88年7月22日

長州力に初めてフォール負け。

88年8月8日

横浜文化体育館大会で藤波のIWGP王座に挑戦。「負けたら引退」を宣言してリングに上がったが、45歳の年齢ながらも好ファイトを展開。60分フルタイムドローで引き分け。この試合以後、IWGP王座に挑戦することはなかった。

89年4月24日

初の東京ドーム大会のメインイベントでショータ・チョチョシビリと異種格闘技戦。円形リングで行われた。5R1分20秒、裏投げ3連発にKO負け。初の異種格闘技戦の敗戦となった。

89年5月25日

大阪城ホールでショータ・チョチョシビリと再戦。2R1分7秒、裏十字固めで勝利。

89年7月24日

スポーツ平和党を設立し、「消費税に延髄斬り」、「国会に卍固め」をキャッチフレーズに、選挙運動を展開。参院選に当選。初の国会議員レスラーとなった。

92年1月4日

東京ドーム大会で馳浩と対戦。1年3ヶ月ぶりの試合となったが、スリーパーで失神させるなど迫力ある攻防を展開。失神から回復したとたんに浴びせ蹴り。さらにキレイなダブルアームスープレックスを見せた。裏投げ4連発でピンチに陥ったが、最後は10分9秒、卍固めで勝利。

95年4月28日

北朝鮮で2日間で38万人の観衆を集め、「平和のための平壌国際スポーツ・文化祭典」を開催。リック・フレアーに延髄斬りで勝利。

96年1月4日

東京ドーム大会でベイダーと対戦。衝撃で猪木の首がマットに跳ね上がる投げっ放しジャーマンや、衝撃で猪木の膝が額にぶち当たるチョークスラムなど、容赦ない攻撃で圧倒されたが、14分16秒、腕ひしぎ逆十字固めで勝利した。

98年4月4日

東京ドーム大会で引退試合。ドン・フライと対戦。4分9秒、コブラツイストからのグランドコブラで勝利。「最後に私から皆様にメッセージを贈りたいと思います。人は歩みを止めたときに、そして挑戦をあきらめたときに年老いていくのだと思います。この道を行けばどうなるものか危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ。行けば分かるさ。ありがとう!」と試合後に挨拶。

07年6月29日

両国国技館で新団体IGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)の旗揚げ戦。出場選手のブッキングやカード編成に難航し、大会当日に対戦カードが発表されるという珍しい大会となった。カート・アングルブロック・レスナーのメインイベント終了後にリングに立つ。「猪木のイチオシ、今宵はプロレスか、はたまた狂言か。信じるか信じないかはあなた次第。大変な状況下の中で、無事終えることができました。今日は十字架を用意しておきながら、はりつけにならなくてよかったのかな。いろんなストレスの中で熱いメッセージを送ろうと、やらない予定でしたが、やっぱりやらないといけないのか」とスピーチし、「いくぞ、1、2、3、ダァーッ!」で大会を締めた。

07年12月20日

IGFの有明コロシアム大会に来場。第1試合の前にサンタクロースに扮した猪木が登場。「元気ですかー! 元気があれば何でもできる。元気があればバカにもなれる。この年の瀬の忙しい時期に大会を組んでみましたが、こんな時に来てくれるのはよっぽどモテないヤツか、ヒマなヤツか、それとも猪木のプロレスが飯よりも好きなヤツか・・・。今年もいろんなことがありましたが、世の中に元気を送ろうということで、この中に元気ボールを入れてきました」猪木は白い袋の中から、プレゼント交換権のあるボールを客席へ投げ入れる。「改めて、元気ですかー!会場に足を運んでくださいましてありがとうございます。今大会も二転三転し、皆さんにご迷惑おかけしましたが、なんとなくそれがIGFの売りになってしまっています。小川のカード決まらなかったり 安田が自殺未遂を起こしたり、ブラジルからお化けが3匹やってきたり。IGFのリングから元気を発信いたします。それでは始めるぞー!」とあいさつした。メインの小川対安田の試合では、KOされた安田を攻撃し続ける小川めがけて乱入し、小川を魔性のスリーパーで絞め落とす。安田にもストンピング。回復し、猪木につかみかかった小川を安田が割って入り、一触即発の状況のまま大会終了。試合後のマイクで以下の挨拶。「やるなら殺せ!これから次に上がってくるヤツ、そういう覚悟で上がってこいよ。今日はよかったか悪かったかオレには分からない。一寸先は闇と言うけれど、オレにとって一寸先はハプニング。来年はすげえことを起こすぞ!皆さんも元気で!行くぞー、1、2、3、ダーッ! 」主催者発表では6233人だったが、実際には半分以下の観客しかいない大会だった。

08年4月12日

IGFの大阪府立体育会館大会に来場。大会中盤での挨拶では「おれも人生、そろそろ迎えが来るのかなと。最近一番困っていることは、ジャイアント馬場からの挑戦状。三途の川で待っているという。それに応えようかどうしようか困っています」と語る場面もあった。メインでかみ合わない試合を見せた小川に対し、リングサイドから「ちゃんとやれよ!」、「天下取れるかよ、こんなんでよ!」と張り手。大会後には「まだまだIGFは魂が入ってねぇなと。この次はもっともっとみなさんの期待に応えたいと思います(後略)」と挨拶。

09年9月28日

腰痛の一種である腰椎すべり症の手術。10月13日に退院。

10年2月9日

日本人で初めてWWEの「ホール・オブ・フェイム(殿堂)」入り。エド・ウェルズWWEイーストアジア代表が出席し、都内のホテルで授与式が行われた。「元気があれば殿堂入りもできるということで、今日は本当にありがとうございます。WWEとは非常にいい関係で選手の交流を行ってきましたが、このような賞をいただいてうれしく思っています。これからもプロレスの絆を強くしていきたいと思います」と挨拶し、「私も北朝鮮やドバイ、ブラジルなどいろいろな国に行きましたが、プロレスは世界中で通用するスポーツです。世界中で元気がなくなっていますが、若い世代にメッセージを送っていきたいと思います」と語った。

11年4月5日

東日本大震災の25日後、蝶野正洋、鈴川真一、澤田敦士らと共に、福島県いわき市と宮城県東松島市にある4カ所の避難所を訪問。ミネラルウオーター3万リットル、タオル5000本、ダウンジャケット500着、女性用肌着、紙おむつ、トイレットペーパーなどの支援物資を届けた。被災地区を目の当たりにして「今日は「元気ですかーっ!?」って言っていいのか悪いのか」とためらいつつも、ビンタによる闘魂注入や「1、2、3、ダーッ!」を連発。「元気があれば復興もできる!」と被災者にメッセージを送った。
スクラップブック
猪木さんの付け人になってからは他の人の雑用を引き受けられなくなって稼ぎ口が減ったけど、そのぶん猪木さんが小遣いをくれた。粋だったね、猪木さんは。「ランニングするのに軍手がほしい。普通の軍手でいいんだけど、いくらするんだ?」って聞かれて「たぶん50円か100円ぐらいです」って言ったら「じゃあ1個買ってきてくれ」って10万円渡すんだよ。歯ブラシ買いに行くにも10万円。お釣りを返そうとすると「え? いらねえの?」って。夜も地方の後援者の接待に連れていってくれた。当時の先輩たちはオレを連れていくと、いっぱい食わせるかいっぱい飲ませるかばかりで、だから先輩との飯は嫌だった。だけど猪木さんは「勝手に食ってろ」って言ってくれて、猪木さんが後援者の人と話してる横でオレは好きなもんを好きなだけ食った。すき焼き、しゃぶしゃぶ、ステーキ、大トロ・・・みんなプロレスに入ってから初めて口にした食い物だった。 (週刊プロレスNo.1470「鈴木みのるの独り言」より)
「猪木さんはやりやすかったよ。あの人はアドリブで来るけど、俺はそれに対応出来るし、あっちだって俺の仕掛けに対応してくるから試合してて面白かったな。お互いに臨機応変に動いてさ。あの人はちゃんと相手も引き出すし、プロレスが巧いんだよ。相手も上げて、自分も上がるんだ、あの人は。だから、タイガー・ジェット・シンなんかも看板ガイジンにしちゃったわけでさ」(Gスピリッツ Vol.15のケンドー・ナガサキのインタビューより)
自分自身のプロレス人生を振り返って、やっぱり俺にとって最高のパートナーは猪木さんだね。仕事においても私生活でも。性格が正反対だったからよかったのかもわからんな。いろいろととんでもない目にも遭ってきたけど(苦笑)、あの人はいつも夢を持ってたしね。2人きりになると「坂口、悪いな。苦労かけてるな。この仕事はそのうち成功するから。お前にもちゃんとアレするから」と、俺によく言ってたよ。「ああ・・・そうですか」と。どこか気にかけてくれてるなと。これで無視されてたら「こっちはこんなに苦労してるのに」と思うかもわからないけどよ、そういうさりげないひと言を言われるだけでもうれしい。いまもどこかで会うと「元気か。メシ食おうや」となるよ。(坂口征二のインタビュー 週刊プロレス No.1587より)
「格闘技世界一決定戦」1976〜1989

1976年2月6日
日本武道館
ウイリエム・ルスカ
20分35秒 TKO勝ち

1976年6月26日
日本武道館
モハメド・アリ
3分15ラウンド
15ラウンド判定引き分け

1976年10月7日
蔵前国技館
アンドレ・ザ・ジャイアント
23分44秒 TKO勝ち

1976年12月9日
蔵前国技館
ウイリエム・ルスカ
21分27秒 レフリーストップ勝ち

1976年12月12日
パキスタン・カラチ・ナショナル・スタジアム
アクラム・ペールワン
5分6ラウンド3本勝負
3ラウンド1分5秒 ドクターストップ勝ち

1977年8月2日
日本武道館
ザ・モンスターマン
3分10ラウンド
5ラウンド1分38秒 KO勝ち

1977年10月25日
日本武道館
チャック・ウェップナー
3分10ラウンド
6ラウンド1分35秒 逆エビ固めで勝利

1978年4月4日
アメリカ・フィラデルフィア・アリーナ
ザ・ランバージャック
3分10ラウンド
3ラウンド1分19秒 KO勝ち

1978年6月7日
福岡スポーツセンター
ザ・モンスターマン
3分10ラウンド
7ラウンド1分58秒 KO勝ち

1978年11月9日
ドイツ・フランクフルト・フェストホール
カール・ミルデンバーガー
3分15ラウンド
4ラウンド1分15秒 逆エビ固めで勝利

1979年2月6日
大阪府立体育会館
ミスターX
3分10ラウンド
3ラウンド50秒 逆十字固めで勝利

1979年4月3日
福岡スポーツセンター
レフトフック・デイトン
3分10ラウンド
6ラウンド1分19秒 TKO勝ち

1979年6月17日
パキスタン・ラホール・カダフィスタジアム
ジュベール・ペールワン
10分5ラウンド
5ラウンド時間切れ引き分け

1979年10月5日
韓国・ソウル・奨忠体育館
ウイリエム・ルスカ
15分6秒 弓矢固め

1979年12月13日
京都府立体育館
キム・クロケード
3分10ラウンド
3ラウンド58秒 KO勝ち

1980年2月27日
日本武道館
ウィリー・ウイリアムス
3分15ラウンド
4ラウンド1分24秒 両者ドクターストップ

1984年9月20日
大阪府立体育会館
アノアロ・アティサノエ
3分10ラウンド
5ラウンド25秒 バックドロップで勝利

1986年10月9日
両国国技館
レオン・スピンクス
3分12ラウンド
8ラウンド1分33秒 体固めでフォール勝ち

1989年4月24日
東京ドーム
ショータ・チョチョシビリ
3分10ラウンド
5ラウンド1分20秒 裏投げにKO負け

1989年5月25日
大阪城ホール
ショータ・チョチョシビリ
3分10ラウンド
2ラウンド1分7秒 裏十字固めで勝利

ヒロ斉藤40周年ヒストリー】(終)「たったひとつの後悔・・・永遠のアントニオ猪木」
 (スポーツ報知 2019年10月27日12:05配信より)
◆猪木の付け人を務めた日々
1985年8月。ヒロは新日本プロレスを退団した。カルガリー・ハリケーンズを結成し翌年から全日本プロレスとジャパンプロレスに参戦した。しかし、今もあの時の判断を悔やんでいる。それは、憧れ続けた猪木を「裏切った」という思いが自分の中で傷跡となっている。猪木と久しぶりに対面した時、その傷が一気に疼いた。再び4月の後楽園での再会時の心境を明かした。
 「猪木さんに挨拶した時、自分はファンのような感じで“ワァ!猪木さんだ”ってなってしまったんです。その時に本当に自分が情けなくなりました。“なんでこの人の下を辞めたのか。死にものぐるいで入ってお世話させてもらってこんな好きなところをくだらないことで辞めたのか”って本当に思いました。あの時の自分は、バカだったんですね。あんなに苦労して入ったのに…実は、あれからずっと今もそのことばっかり思っています」
 デビューして間もない時、ヒロは猪木の付け人を務めた。当時の思い出を振り返った。
 「自分は、猪木さんに付かせて頂いて、嫌だなって思ったことは一度もありません。ファンの時に憧れた方ですけど、入った後も猪木さんに対して失望したことも一度もないです。それは今もずっと変わりません。自分の中での猪木さんは、中学の時に初めて見た時とまったく同じそのままなんです」
◆猪木からの5万円
 付け人時代は、朝から晩まで猪木の側を離れなかった。
 「猪木さんは、毎朝、走るんですね。“オイ、一緒に行くぞ”って言われて走って、道場では1対1で教えてもらったりしました。自分は体が小さいので、相手はみんな自分よりデカイ選手ばかりなので、猪木さんから、懐に潜り込んで投げれば投げられるぞって教えて頂いて、実際にその通りにやってみるとできるんですね。そうしたら猪木さんが、できるだろって言っていただいて技を学びました。夜中はマッサージをするんです。自宅にも呼ばれたこともあります。2時間ぐらいマッサージやって、あの時は“なんでこんなことやっているのかなぁ”と思ったこともありますけど、今思うと本当に貴重な時間だったんだなぁって思うんですね」
 猪木の自宅では当時の妻で女優の倍賞美津子のマッサージも行った。
。 「美津子さんは、すごくいい人で当たり前ですけど、すごくきれいな方で、お二人はすごく仲が良かったですね」
 自宅に行くと猪木は帰りにタクシー代として5万円を渡したという。
 「先輩方から聞いた話だと、猪木さんは、昔から付いている人には、お小遣いをあげなかったと言っていました。だけど、自分だけはもらってました。タクシー代として直接、もらった時もありますし、例えば控室なんかで自分は付け人なので、猪木さんのバッグの側に自分のバックがあって、そこに自分の財布が入っているんです。そうすると、自分が控室を離れて仕事をしている時に、猪木さんが自分の財布を見つけて中にお金がないと5万円とかを入れてくれていたんです。自分は、猪木さんから頂いたお金だと思ってありがたくて使わないで大事にしていると、猪木さんが自分の財布にお金が残っているのを見ると“オイ、いらないのか?いらないなら返せ”って言って頂きました。それは遠慮しないで使えっていう意味なんですね。そういう思い出が猪木さんとは、いっぱいあるんです。だから、本当にあの時に辞めたことがプロレスラーとして最大で唯一の後悔なんです」