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スタン・ハンセン
STAN HANSEN


本名:ジョン・スタンレー・ハンセン
1949年8月29日
テキサス州ナックシティ出身
195cm 140kg
タイトル歴:三冠ヘビー PWFヘビー インターナショナル UNヘビー AWA世界ヘビー NWF世界ヘビー WCW・USヘビー 世界タッグ インターナショナルタッグ PWFタッグ NWA・USタッグ(トライステート版)
得意技:ウエスタンラリアット

入場テーマ曲 サンライズ
通称、不沈艦。ウエスト・テキサス大学に入学後、NFLのボルチモア・コルツで活躍していたが、ヒザの故障で退団。その後一年間、大学に戻り卒業。卒業後、サンディエゴ・チャージャーズの一軍テストに参加するが、知人の紹介で教職につく。9月から12月まで中学で地理の授業とフットボールのコーチをする。教師の給料が少ないのを理由にプロレス転向を決意。テキサス州アマリロのドリー・ファンク・シニアのコーチを受ける。73年1月1日にデビュー戦を行い、エル・パソ体育館大会でアレックス・ペレスと組んでジェリー・コザックニック・コザック組と対戦。ペレスがレフリーを暴行して反則負け。3ヶ月後にフロリダに転戦。8月にアマリロ地区に復帰。74年8月、トライステート地区(オクラホマ&ルイジアナ地区)でフランク・グーディッシュ(ブルーザー・ブロディー)とタッグを結成。10月、グーディッシュと組んでジョニー・イーグルス、テリー・ラザン組を破りUSタッグ王座を獲得。75年9月、全日本プロレスに初来日。11月、ダラス地区に転戦。ブッカーのレッド・バスチェンにヒールとして抜擢され、メインイベントにもたびたび出場した。この頃からウエスタン・ラリアットをフィニッシュにするようになった。ハンセンを大スターに押し上げた「ウエスタン・ラリアット」はアメフトのカウンター・タックルからヒントをつかみ、あみ出された。ブルーザー・ブロディーとはオクラホマ時代からコンビを組んでおり、長くUSタッグ王座を保持していた。76年4月、ニューヨークのWWWFに進出。4月26日、マディソン・スクエア・ガーデン大会でブルーノ・サンマルチノのWWWFヘビー級王座に挑戦。ボディスラムを失敗し、サンマルチノの首を負傷させ、ドクターストップ勝ち。規定により王座の移動はなかった。サンマルチノは第六頚部脊椎骨骨折の重傷を負い、長期欠場。一夜にしてWWWFのトップヒールとなった。6月25日、シェアスタジアム大会で、復帰したサンマルチノと対戦。リングアウト負けに終わった。77年1月から新日本プロレスに参加し、アントニオ猪木の好敵手となる。全日本プロレスに電撃移籍するまで5年間で14回にわたって来日し、通算9回、猪木とNWF戦を行っている。77年2月8日、東京体育館で猪木からNWF認定ヘビー級王座を初奪取。猪木に奪われるまで2ヶ月間保持。79年4月、新日本プロレスの第2回MSGシリーズに参戦。6月7日、蔵前国技館大会での決勝で猪木と対戦。9分3秒、ダイビング・ボディシザースドロップに敗れた。80年4月、新日本プロレスの第3回MSGシリーズに参戦。6月5日、蔵前国技館大会での決勝で猪木と対戦。7分49秒、反則負け。81年5月、新日本プロレスの第4回MSGシリーズに参戦。6月4日、蔵前国技館大会での決勝で猪木と対戦。7分45秒、リングアウト負け。9月23日、田園コロシアムでアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。「不沈艦」対「大巨人」の大迫力のパワーファイトが展開。アンドレをボディスラムで投げつけた。試合は8分26秒、両者リングアウトで終わったが延長戦が行われ、ラリアットを放ってアンドレを場外に転落させた。最後はアンドレがレフリーにラリアットをしたため、4分22秒、ハンセンの反則勝ちに終わった。 82年1月から全日本プロレスに参戦。2月4日、東京体育館大会でジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦。執拗な左腕への攻撃を受けつつもラリアットを決めたが、馬場が場外にエスケープしたためフォールを奪うことができず、そのままレフリーを巻きこんでの場外乱闘となり、12分39秒、両者反則により引き分け。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。 83年9月、ジャイアント馬場からPWFヘビー級王座を獲得。3度の防衛に成功した。85年9月ごろからAWAに登場。12月29日、ニュージャージー州メドーランズ・アリーナでAWA王者のリック・マーテルに挑戦。27分5秒、逆エビ固めで勝利してAWA世界ヘビー級王座を獲得し、6ヶ月間保持。 86年9月、ジャンボ鶴田からインターナショナル王座を奪取。これを機に王座統一(三冠)を目指す。 88年7月27日、長野市民体育館大会で天龍源一郎のPWF、UN王座に挑戦。14分33秒、エプロンからコーナーに登ろうとした天龍にラリアットを決めてリングアウト勝ち。二冠王座を獲得。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。 89年4月、ジャンボ鶴田との三冠統一戦に敗れる。 90年2月10日、新日本プロレスの東京ドーム大会でベイダーのIWGP王座に挑戦。外国人頂上対決となり、大迫力の試合となった。ハンセンのヒジがベイダーの右目に当たり、腫れあがっても試合を続行。予告ラリアットはドロップキックで返され、強烈なベイダーハンマーをくらったが、ロープの反動でハンセンがラリアット。ラリアットをくらってもベイダーは倒れなかった。15分47秒、両者リングアウトの引き分けの結果だったが強烈な印象を残した。6月8日、テリー・ゴディを破り三冠王者となる。6月12日、新日本プロレスの福岡国際センター大会でベイダーのIWGP王座に挑戦。22分11秒、両者反則の引き分けに終わった。7月に王座決定戦で三沢光晴を破り、再び三冠王者となる。 91年4月、ダニー・スパイビーと組んで、テリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムス組から世界タッグ選手権を獲得した。 92年1月、鶴田から1年ぶりに三冠王座を奪回し、第9代王者に返り咲いた。4月のチャンピオン・カーニバルでは全勝優勝を飾り、三冠王者としての威信を示した。6月5日、日本武道館大会で川田利明を相手に防衛戦。強烈なラリアットで勝利。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。 93年、チャンピオンカーニバルで2連覇を達成。7月29日、日本武道館大会で小橋と対戦。22分35秒、ラリアットで勝利。WWFを離脱したテッド・デビアスと6年ぶりにコンビを結成。9月3日、日本武道館大会でテッド・デビアスと組んで川田、田上組の世界タッグ王座に挑戦。13分12秒、ハンセンがラリアットで田上に勝利。世界タッグ王座を獲得した。10月14日、松本市総合体育館大会で川田、田上組を相手にタッグ王座の防衛戦。18分15秒、ハンセンがラリアットで川田に勝利。10月23日、日本武道館大会のメインで三沢の三冠王座に挑戦。22分10秒、前方回転エビ固めにフォール負け。 95年1月25日、福島市体育館大会で田上を相手に三冠王座挑戦者決定戦。17分59秒、ラリアットで勝利。3月4日、日本武道館大会で川田の三冠王座に挑戦。31分26秒、ラリアットで勝利。三冠王座を獲得した。5月26日、札幌中島体育センター別館大会で三沢を相手に防衛戦。25分6秒、ヘッドシザース固めにフォール負けして王座転落。 96年1月24日、松本市総合体育館大会でゲーリー・オブライトと組んで川田、田上組の世界タッグ王座に挑戦。22分40秒、ハンセンがラリアットで川田に勝利。世界タッグ王座を獲得した。2月20日、岩手県営体育館大会で川田、田上組を相手にタッグ王座の防衛戦。20分53秒、田上ののど輪落としにハンセンが敗れて王座転落。9月5日、日本武道館大会で小橋の三冠王座に挑戦。26分7秒、ラリアットに敗れた。 98年年末の世界最強タッグ決定リーグ戦ではベイダーと組んで優勝。98年度のプロレス大賞でベイダーと共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。 99年年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では田上と組んで参戦。12月3日、日本武道館大会で小橋、秋山組を相手に優勝決定戦。20分15秒、秋山のエクスプロイダーに田上が敗れた。00年、ジャイアント・シリーズ中に行われた、新・三冠王者決定トーナメントでは、1回戦で新崎人生と対戦。得意のウエスタン・ラリアットで勝負を決めたが、試合途中から持病の腰痛を悪化。下半身の感覚が無くなっていた。その後、2大会を欠場してまで備えた準決勝では、7月に全日プロに復帰したばかりの天龍源一郎と対戦し、惜しくも敗れる。その後、1月28日の東京ドーム大会までの長期欠場が発表される。11月19日、後楽園ホールのリング上で、全日本プロレス馬場元子社長より引退表明がアナウンスされ、01年1月28日の東京ドーム大会で引退セレモニーが行われた。引退後はPWF会長に就任。たびたび全日本プロレスに来日した。15年11月15日、両国国技館での天龍の引退興行に来場。テリー・ファンクと共にリングに上がり、引退試合を終えた天龍に花束を渡した。

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