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サムソン・クツワダ

本名:轡田友継
1947年5月1日
北海道江別市出身
190cm 120kg
タイトル歴:アジアタッグ NWAオーストラレーシアンタッグ
得意技:ブレーンバスター アトミックドロップ

大相撲の朝日山部屋入門。四股名は二瀬海。幕下23枚目まで昇進。67年8月、力道山死後の日本プロレスに入門。馬場の付き人となった。当時日本で開かれていたゴッチ教室でカール・ゴッチに指導を受けた。71年、日本プロレスの韓国遠征で、タイガーマスクとして遠征。当時の韓国ではタイガーマスクのアニメが放映されていた。この韓国遠征は大木の企画だった。大木金太郎、上田馬之助リップ・タイラー、タイガーマスクでリーグ戦を行なった。タイガーマスクはリップ・タイラー、上田に勝利し、最終戦で大木に敗退(大木の優勝)。72年、全日本プロレスの旗揚げに参加。10月21日、両国の日大講堂での全日本プロレスの実質的な旗揚げ興行のセミファイナルでブルーノ・サンマルチノと対戦し、ベアハッグで敗れる。73年4月、オーストラリアに遠征。オーストラリアでは陸軍将校の制服を着てグレート東条のリングネームで通算3度にわたり遠征し、ナチスの格好をしたワルドー・フォン・エリックと組んでヒールとして活躍。ロン・ミラーらと抗争し、5月13日、ワルドーと組んでNWAオーストラレーシアンタッグ王座を獲得した。10月19日にも高千穂明久と組んでNWAオーストラレーシアンタッグ王座を獲得した。 76年10月に高千穂明久と組んでアジアタッグ王座を獲得。現役時代からプロモーターとして活躍していた。芸達者でレコードもリリースした。77年暮れにジャンボ鶴田と組んで別会社を設立しようとする動きが発覚し、全日本プロレスを解雇された。03年10月26日の全日本プロレス武道館大会に来場。武藤の試合前に社長就任2年目を祝う花束をリング上で贈った。04年10月12日、急性骨髄性白血病により死去。
「馬場さんのサムソン・クツワダの使い方知ってる?プロモーターやらせたこと」
――詳しいことは知りませんが、そういう話は聞いたことがあります。
「薄々は知ってるでしょ?日本テレビは付いてる。でも、地方の興行はできない。人脈がないから、営業ができないの。クツワダは人がいいから”僕がやります”って。あの頃は年間120ぐらい興行やってたかな。そのうち60〜70はクツワダがやってんだよ。自分で全日本の興行を買ってね。そうなると練習は出来なくなるだろ。金だってお客さんが入った時はいいけど、入らなかったらどうするの。あの頃、若い衆を3人ぐらい使って、宣伝カーも2〜3台。経費掛かるよ。払えないじゃない。そうしたら試合のギャラから引かれるんだよ。でも、売り上げの中から、女房を食わせなきゃいけない。当たり前だろ?そんで最後にはクツワダにウン千万の未払いがあったわけよ。でも、それで何年もやってきて、全日本は収入を得ただろ?たとえツケはあったにしても。それなのにクツワダをクビにして、退職金で処理したんだから」
――クツワダ選手は鶴田さんと別会社を創ろうとしたのが発覚して、解雇されたという説もありますが。
「ノーノーノー、使い捨てだよ、可哀相に。俺からすれば、マスコミは馬場さんを美化しすぎ。もちろん、いいところもあるよ。でもクツワダの場合だって、汚名を着せられてるだろ。俺はね、暴露はしないですよ。でも、嘘もつかないから。クツワダは確か全日本の株を何%か持ってたんだよね。それで退職金が支払われたんだけど、その金でツケを処理したのよ。だから、全日本にとって最大の功労者は誰かと言ったら、クツワダなんですよ。クツワダがいなかったら、その後の馬場さんの全日本はないからね」
(「Gスピリッツ」10号(08年12月)のグレート小鹿のインタビューより)

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