レスラーノート

佐藤昭雄

本名:佐藤昭夫
1953年12月13日
北海道弟子屈町出身
180cm 105kg

タイトル歴
アジアタッグ
セントラルステーツ・ヘビー
セントラルステーツ・TV
NWA世界タッグ王座(セントラルステート版)
ルイジアナヘビー
北米ヘビー
CWA世界タッグ
得意技
垂直落下式ブレーンバスター
バックスピンキック
ドロップキック

弟子屈高校では柔道で活躍。70年5月、日本プロレスに入門。10月13日、高岡市体育館大会での新海弘勝戦でデビュー。一年後輩に藤波辰巳がいた。馬場の3人目の付き人になる。72年に全日本プロレスの旗揚げに参加。貴重な前座、中堅の戦力となる。74年4月、アメリカに初の海外遠征。テキサス州アマリロで活躍。75年2月、カンサスを中心とするセントラルステート地区に移動し、人気を獲得。76年2月19日、セントジョセフでボブ・ガイゲルと組んでケン・マンテルロン・バス組を破りNWA世界タッグ王座(セントラルステート版)を獲得。5月には女子レスラーのベティ・ニコライと結婚した。その後、カロライナ、ジョージア、アマリロに移動。アマリロではミスター・ポーゴ高千穂とタッグを組んでヒールで活躍。79年8月、オールスター戦にあわせて高千穂と共に帰国。地味なレスリングスタイルで人気は出なかった。10月10日、北海道の弟子屈で友人の車の助手席に乗っていたところを交通事故に遭い頭部裂傷、頸骨骨折の重傷を負う。弟子屈で3ヶ月入院し、80年1月にはカンサス市でリハビリの生活を送る。8月24日、カンサス州トペカで復帰戦。81年1月に全日本プロレスに復帰。1月2日、後楽園ホールでの復帰第1戦では石川隆士と組んでグレート小鹿大熊元司組と対戦し、15分31秒に石川が大熊にフォール勝ち。6月11日、後楽園ホール大会で石川と組んでケビン・フォン・エリックデビッド・フォン・エリック組を破りアジアタッグ王座を獲得。王座獲得後に姓名判断で本名の佐藤昭夫から佐藤昭雄に改名。7月23日にルーファス・ジョーンズビクター・リベラ組を破って初防衛。アジアタッグ王者としてPWFタッグ杯に出場し、8月20日の後楽園ホールでの1回戦でドクトル・ワグナーアニバル組に勝利。8月25日、富岡魚菜市場での準決勝でミル・マスカラスドス・カラス組と対戦し、12分35秒、ドスのフライングボディアタックに佐藤がフォール負け。アジアタッグ王座は阿修羅原マイティ井上組、小鹿、大熊組、フランク・デュセック、ルーファス・ジョーンズ組、ドリームマシーンロッキー・ジョーンズ組を相手に83年1月20日まで5度の防衛を重ねたが、佐藤のケガを理由に王座返上。81年から84年まで、全日本プロレスのブッカーとして活躍。若手の三沢光晴越中詩郎ターザン後藤冬木川田利明らを指導した。85年4月15日、長崎国際体育館大会で石川と組んでアニマル浜口栗栖正伸組との王座決定戦に勝利し、アジアタッグ王座2度目の獲得。7月18日、後楽園ホール大会でアニマル浜口、寺西勇組に敗れてアジアタッグ王座から転落。その後、8月にアメリカ遠征。カンサス地区を拠点に活動。そのまま全日本プロレスを離脱。11月、ターザン後藤をカンサス地区にブッキング。86年3月、セントラルステーツ・TV王座を獲得。6月、テネシーのCWAにターザン後藤と共に転戦し、「オリエンタル・エキスプレス」で活躍。CWA世界タッグ王座を獲得。この時期に、カロライナでデビュー前のトレーニングをしていた輪島大士を指導した。87年8月に帰国。88年2月に渡米。10月には、海外遠征していた藤波のセコンドについた。89年3月23日、セントラルステーツ・ヘビー級王座を獲得。同年11月ごろに、親友のジム・デュランがWWFに移ったことから、WWFの極東地区担当マネージャーとしてフロントに入る。90年4月13日、東京ドームでの「日米レスリングサミット」では日本とWWFの間の折衝役として活躍した。選手としてはパット・タナカとオリエントエクスプレスを結成し、田吾作スタイルのヒールとして活躍。90年のレッスルマニアではロッカーズに勝利している。91年3月30日、SWS・WWF主催の「レッスルフェスト 東京ドーム」を担当。94年5月のWWF「マニアツアー」のプロデュースも担当。95年1月からシンジャに変身し、WWFに移籍したハクシー(新崎人生)のマネージャーとして活躍。7月からWARに参加しブッカーとして活躍。WARではシンジャとして試合にも出場した。12月4日、WARの博多スターレーン大会で平井と対戦。11分5秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。12月5日、熊本市体育館大会で荒谷と対戦。11分40秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。LLPWのアドバイザーにも就任。96年2月、IWAジャパンの専務に就任。10月、冬木が率いる冬木軍、ターザン後藤が率いる真FMW、UWFインターナショナルの安生洋二、東京プロレス、折原昌夫らとインディー統一機構であるFFFの旗揚げに参画した。しかし、親会社の経営悪化によって旗揚げ前に団体が崩壊。FFFでは各団体からの選手引き抜きに暗躍したため、業界内での評判を落とした。その後はカンザスシティーに定住。08年6月11日、ラスベガス・リビエラホテル&カジノでのプロレスラーOB会「カリフラワー・アレイ・クラブ」総会に出席。



スクラップブック
「佐藤さんはいい人だったよ。会いたいねぇ。あの人は教え方が上手かった。”ひとつ覚えれば、あとはドンドン覚えられるから”って、プロレスの技術の基本、発想を教えてくれましたよ。日本でデビューした後にシャーロッテにビデオを持っていって佐藤さんに観てもらったら、”お客さんは2階にもいるんだから、上も見なきゃダメだよ”とか細かいところも教えてくれてね」
(「Gスピリッツ」10号(08年12月)の輪島大士のインタビューより)


――その頃は佐藤昭雄さんもコーチをしてくれたんですよね。
「ええ、昭雄さんは馬場さんにいろいろ進言してくれた人です。”全日本はこのままじゃダメですよ。若い人たちをドンドン上げていかないと。活きのいいのがいるでしょ?”って感じで。だから昭雄さんがいなければ、僕も三沢もメキシコに遠征は行ってないですよ」
(「Gスピリッツ」10号(08年12月)の越中詩郎のインタビューより)