ダークロHP / レスラーノート

ザ・グレート・カブキ

本名:米良明久
1948年9月8日
宮崎県延岡市出身
184cm 110kg
タイトル歴:NWF世界タッグ テキサス・ヘビー 世界タッグ(全日本プロレス) UNヘビー アジアタッグ 中西部タッグ ミッド・アメリカ選手権
得意技:トラースキック 毒きり

全日本プロの中堅レスラーであった高千穂明久の変身で、2代目のザ・グレート・カブキである(初代はフィリピン系のタロー・サクロー)。中学2年の時に愛知県知多市に転校。中学では水泳のバタフライと自由形で活躍。64年1月15日、日本プロレスの事務所のあるリキパレスに行き入門直訴。豊登に中学を卒業からの入門を許される。口約束だけでは心配だったため、事務所の人に頼んで一筆書いてもらう。卒業後の3月18日に合宿所に入る。しかし3ヶ月ほど経った6月ごろにクビになる。北沢にすぐに出て行かずに遊んでいけと言われたので合宿所に残り、1週間後にリキパレスでの試合前に吉村、豊登に挨拶に行った。

「吉村さん、いろいろお世話になりました」吉村さんは「おう、これから頑張れよ」と。次に豊さんのところに行ったら「あれ、坊や、誰だ?いくつだ?」と言うんですね。もう、俺のことを忘れてた(笑)。
でも豊さんが芳の里さんに「お〜い、淳ちゃん、こいつもったいないよ。15だし」そしたら芳の里さんが「おう、お前15か。じゃあ、残そうか。うん、残れ残れ」
「え、ありがとうございます。でも退職金を5万円もらっているんですけど」と言ったら「いいよ、それはもらっとけ」と言われた。
あの頃、大学卒業で1万9500円くらいですよ、初任給が。すごい金ですよ。
(週刊プロレス NO1420 より)

豊登、芳里、吉村の3人の付き人となった。64年10月31日、宮城県石巻大会での山本小鉄戦でデビュー。ドロップキックを出したが5分4秒、ボディスラム3連発に敗れた。70年には海外遠征経験のない若手としては異例の抜擢でワールドリーグ戦に出場。同年9月にアメリカ遠征。ロス地区で半年ほど試合を行い、その後、デトロイトに転戦。ミツ・アラカワと組んで下駄履き姿の東洋人スタイルで出場した。ヨシノサト、デビル・サトのリングネームで出場した。リングネームは当時の日本プロレス社長芳ノ里の遠征時の名前からとった。72年1月19日、アラカワと組んでトニー・パリシ、ドミニック・デヌーチ組を破りNWF世界タッグ王座を獲得。ロスに戻った後、同年に選手大量離脱による日本プロレスのピンチに伴い帰国。坂口とのコンビでNWAタッグリーグで優勝。坂口離脱後の73年3月8日、佐野市民会館大会でジョニー・バレンタインを破りUNヘビー級王座を獲得。4月に日本プロレスは崩壊。UN王座を返上した。同年、全日本プロレスに移籍後、オーストラリアへサムソン・クツワダとのコンビで遠征。全日本プロレスでは道場で若手の指導もしていた。78年、再度の米国遠征。フロリダを中心にマサ斎藤とのコンビで活躍。79年夏に帰国。80年、渡米。81年2月に、テキサス地区でマネージャーをしていたゲーリー・ハートのアイデアでカブキに変身。ハートはマスクマンにする予定だったが、本人が「歌舞伎なのにマスクをかぶるのは少しおかしい」とペイントレスラーになることに決めた。「米良明久という日本人はミズーリ川に身を投げて消えた」とのこと。テキサス州ダラス地区で活躍し人気を得る。マネージャーとなったゲーリー・ハートの人脈を活かして全米をサーキット。83年に帰国。カブキをイメージしたコスチューム、毒きりやヌンチャクなどのデモンストレーションで人気を獲得。86年11月にテネシーでポール・ダイヤモンドを破りミッド・アメリカ王座を獲得。12月にテネシー地区を離れるため同王座は返上した。90年7月29日に鶴田と組んでゴディウイリアムス組を破り世界タッグ王座を獲得。30日に退団。退団前、馬場は取締役のポストを与えて踏みとどまらせようとした。9月のSWSの旗揚げに参加。マッチメーカーになる。SWS崩壊後はWARに所属。その後、新日本プロレスに参戦。平成維震軍に所属した。95年秋に東京プロレスに登場。イレギュラーでIWA・JAPANにも出場した。96年10月8日、東京プロレスの大阪府立体育館大会で初代タイガーマスクと対戦。11分3秒、両者リングアウトに終わった。97年にIWA・JAPANに所属。98年9月に引退。引退後、飯田橋で串焼きちゃんこ「かぶき」をオープン。02年にIWAと新日本プロレス(女子レスラーのジョニー・ローラーとのタッグで蝶野天山のIWGPタッグに挑戦)で2試合出場した。03年5月1日、新日本プロレス東京ドーム大会のプレイベント「ULTIMATE FESTIVAL」で、新日本プロレスOBバトルロイヤルに出場した。06年6月18日、ビッグマウスラウドの後楽園ホール大会に村上和成と組んで鈴木みのる藤原喜明組との対戦が組まれた。現役時代と変わらぬコスチュームと試合前のパフォーマンスで会場を盛り上げたが、試合の参加は拒否。代役にグレート・ユタ(吉江豊)をたてた。試合中に藤原、鈴木に毒霧を浴びせて勝利をアシスト。試合後の藤原の再三の対戦要求にも「二度とリングでは闘わない」と答えてリングを降りた。7月2日、8月20日のビッグマウスラウドの大会でも試合前のパフォーマンスを行ない、藤原の対戦相手としてザ・グレート・カブキ・シート(野橋真実、7月2日)、ザ・グレート・タケ(竹村豪氏、8月20日)を登場させた。08年5月12日、後楽園ホールでの「昭和プロレス」に来場。高杉正彦鶴見五郎組対グレート小鹿DNA(谷口裕一)、ザ・グレート・カブキDNA(ザ・グレート・サスケ)組の試合中に、鶴見たちの反則攻撃から仲間を救出するためにグレート小鹿と共に乱入し、勝利をアシスト。興行の別の場面では、入場衣装でリングに上がり、ヌンチャクや毒霧を披露した。12月18日、後楽園ホールでの「昭和プロレス」でグレート小鹿と組んで山本小鉄星野勘太郎組と対戦。10分、時間切れ引き分けに終わった。

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