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ケンドー・ナガサキ

本名:桜田一男
1948年9月26日
北海道網走市出身
188cm 120kg
タイトル歴:フロリダヘビー フロリダタッグ WWC世界タッグ 北米ヘビー(カルガリー版) インターナショナルタッグ(カルガリー版) NWAアメリカンタッグ
得意技:パイルドライバー 椅子攻撃

網走刑務所の看守を父に持つ。中学卒業後、大相撲の立浪部屋に入門。四股名は網走洋。いじめに反発して兄弟子を殴り、それをたしなめた親方とそりが合わなくなり廃業。71年に日本プロレスに入門。6月27日の戸口正徳戦でデビュー。日本プロレスには73年4月の崩壊まで残り、全日本プロレスに移籍。 75年10月、天龍のアメリカ修行に帯同し初渡米。アマリロ地区で活躍。 77年に天龍と別れてビル・ワットのテリトリーであるルイジアナ地区に転戦。キラー・カール・コックスとタッグを組んだ。その後、カナダ・カルガリー地区に転戦。ミスター・サクラダの名で、カルガリー地区のブッカーのミスター・ヒトとコンビを組んで活躍。ヒトと組んでインターナショナルタッグ王座を2度獲得した。 78年5月20日、レオ・バークを破り北米ヘビー級王座を獲得。10月に帰国。11月3日から始まった国際プロレスの日本リーグ争覇戦にミスター・サクラダの名で参戦。3勝3引き分け1両者リングアウトでリーグ戦を突破。11月26日、久慈市民体育館大会での決勝トーナメント1回戦でプロフェッサー・タナカと対戦。タナカの凶器を奪って反撃し、反則負け。敢闘賞を受賞した。大会後は、カルガリー地区に戻る。 79年にタイガー服部をマネージャーに、ヒトとフロリダに転戦。8月、フロリダ州でミスター・ヒトと組んでフロリダタッグ王座を獲得。 80年からミスター・サクラダの名でミスター・ヒトと共にテキサス地区で活躍。1月11日、ヒューストンでヒトと組んでNWAアメリカンタッグ王座を獲得。3月14日、タイガー・コンウェイ・ジュニア、ホセ・ロザリオ組に敗れて王座転落。6月23日、コンウェイ・ジュニア、ロザリオ組を破りNWAアメリカンタッグ王座を奪回。6月24日、テキサス州アマリロでのケビン・フォン・エリックケリー・フォン・エリック組との防衛戦後、王座預かり。7月1日、アマリロでのケビン、ケリー組との再戦で勝利してアメリカンタッグ王座を獲得。8月1日、エル・ハルコン、ケビン・フォン・エリック組に敗れてタッグ王座から転落した。 ヒトがカルガリーに戻ってからは、81年1月にテキサス州ダラス地区でシンガポール出身のマスクマン、チャン・チュンに変身。ザ・グレート・カブキとタッグを組んで活躍。 82年にフロリダに転戦し、ケンドー・ナガサキに変身。同年10月、マスクマンのドリームマシーンとして一時的に帰国し全日本プロレスに参戦。 83年1月の全日本プロレスのシリーズにも参戦したが、その後はアメリカで活躍。 84年1月にフロリダ州でマイク・ロトンドを破りフロリダヘビー級王座を獲得。 85年10月、全日本プロレスを退団し、コンガ・ザ・バーバリアン(幸ノ島)と共に新日本プロレスに登場。 86年7月にミスター・ポーゴと共に新日本プロレスに再登場。対戦した猪木について「燃える闘魂は意外と軽かったよ」と述べた。 87年10月17日、プエルトリコのWWCでミスター・ポーゴと組んでWWC世界タッグ王座を獲得。FMWにも参戦。 90年、将軍KYワカマツと共にSWS設立の中心人物となる。 91年1月4日、東京ベイNKホール大会でザ・グレート・カブキと対戦。8分28秒、レフリーの死角をついたヌンチャク攻撃からのパイルドライバーで勝利。1月6日、静岡産業館大会でキラー・ブルックスと対戦。10分10秒、ジャンピングパイルドライバーで勝利。2月7日、長崎国際体育館大会でジミー・スヌーカと対戦。12分18秒、ダイビング・ボディアタックに敗れた。3月30日、SWSの東京ドーム大会でハクソー・ジム・ドゥガンと対戦。2分49秒、トラースキックで勝利。5月21日、南足柄市体育センター大会で高野俊二と対戦。11分11秒、ジャンピング・パイルドライバーで勝利。6月10日、愛知県体育館大会で佐野と対戦。13分、逆片エビ固めで勝利。6月11日、大阪府立体育館大会でジョージ高野と対戦。18分9秒、ダイビングボディプレスに敗れた。10月30日、熊本市体育館大会でバーバリアンと対戦。7分25秒、ダイビングラリアットに敗れた。11月10日、札幌中島体育センター大会でケリー・フォン・エリックと対戦。11分25秒、アイアンクローに敗れた。SWS崩壊後、 92年10月にNOWを旗揚げ。しかし経営不振で崩壊。 94年にケイン・コスギ主演「ザ・格闘王」(東映ビデオ)に出演。 95年、グレート小鹿に誘われ大日本プロレス旗揚げに参加。3月16日に横浜文化体育館で旗揚げ戦を行ない、メインで中牧と組んでジ・アイスマンロン・パワー組とバラ線パーフェクト・フォールマッチで対戦。9分50秒、ナガサキがパイルドライバーでアイスマンにフォール勝ち。その後、グレート小鹿の意向でバーリ・トゥード挑戦を表明。9月13日、露橋スポーツセンター大会でジェラルド・ゴルドーの兄である空手家のニコ・ゴルドーを相手にバーリ・トゥード金網マッチ(1R8分)で対戦。2R2分47秒、裏アキレス腱固めで勝利。9月26日、47歳の誕生日にシューティング主催の「Vale-Tudo Perception」駒沢大会でジーン・フレージャー(Zane Frazier)と対戦。右ストレートをくらって36秒の失神KO負け。その後はデスマッチ路線で活躍。 97年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会での新日本プロレスと大日本プロレスの対抗戦で後藤達俊と対戦。9分23秒、パイルドライバーで圧勝。 98年6月8日の伊勢崎大会を最後に大日本プロレスを離脱しフリーに。SPWF、IWAジャパンで活躍。神奈川県小田原市にちゃんこ料理「ケンドー」、スナック「ケンドー」を開店。 16年、心臓手術。20年1月12日、千葉・市原市内の自宅で亡くなっているところを知人に発見された。
SWS旗揚げ
「証券会社に勤めていたメガネスーパーの株主と知り合いで、当時は新日本に上がる時に市ちゃん(若松市政=将軍KYワカマツ)がマネージャーだったから、紹介していつも一緒に飯を食ってたの。そうしてるうちにメガネスーパーがどこかの株を買ったら何億も儲かっちゃって、税金で取られるくらいなら何かに使った方がいいって話になったんだよ。それで北海道で競馬場をやるか、プロレスをやるかとなった時に、その人がプロレス好きだったから、やろうってことになったの。それが発端だよね。それで田中(八郎)社長もプロレスが好きだったし、徐々に話が具体化してきて、89年の秋にWCWに入った時にアトランタで武藤を誘ったのよ。“家も車も買ってくれるよ!”って。実際に90年の春に帰国してから、武藤は田中社長の家に行ってるんだよね。それで小遣いで100万円もらったんだけど、正直に坂口さんに喋っちゃって“それを返してこい”って言われてさ。お金を返して、新日本に残ったんだよ。」(Gスピリッツ Vol.15 ケンドー・ナガサキのインタビューより)
死去“ケンカ最強男”ケンドー・ナガサキさんの超絶武闘伝
(東スポWeb 2020年01月14日19時00分より)
 日本プロレス界の「ケンカ最強男」が天に召された。レジェンドレスラーのケンドー・ナガサキ(本名・桜田一男)さんが12日に死去したことが大日本プロレスから発表され、マット界は深い悲しみに包まれた。71歳だった。北海道・網走刑務所で育ち、海外で名声を獲得した後に日本のプロレス界で活躍。数々の団体を渡り歩き、1995年3月の旗揚げから大日本を支えた功労者は、知る人ぞ知る数々の武勇伝を持つ男だった――。
 13日の大日本プロレス後楽園ホール大会ではナガサキさんの追悼セレモニーが行われ、旗揚げ戦から苦楽をともにしたグレート小鹿会長(77)と登坂栄児社長(48)が並び、一番弟子だった谷口裕一(41)が遺影を持った。大日本によると、ナガサキさんは12日に千葉・市原市内の自宅で亡くなっているところを知人に発見されたという。
 死因は不明。2016年に心臓の手術を受けるも、数日前までは元気な姿を見せていたという。近親者がいないため葬儀日程などは未定で、小鹿会長は「彼がおらんかったら大日本の存在はなかった。感謝しかない。親族の方がいらっしゃいましたら、どうか大日本プロレスまでご連絡ください」と涙をぬぐった。
「ケンカ最強」と言われたナガサキさんには、多くの逸話が残る。父親は網走刑務所の職員で、幼少時は刑務所内で育った。谷口は「流氷に乗ってトドと木刀でケンカして、勝ったら食用にしてたらしいです」と明かす。「戦後間もない網走で弱肉強食の世界を生きてきたから、強さは熊とか象とかと同じで、人類を超えたレベルなんです」
 大相撲からプロレスに転向。米国に渡って悪役レスラーとして一時代を築いた。1980年代中盤には新日本プロレスにも参戦。この時期から「最強説」は根強かった。「大日本が他団体になめられず、新日本にも殴り込めたのも、ナガサキさんがいたからです。小鹿と並んで本当に怖い人が中心にいるから、絶対になめられなかった」と登坂社長は語る。
 96年9月16日には新日名古屋大会に小鹿会長、ナガサキさんら大日本軍団8人が乱入。新日プロ勢も殺気立ち、通路では元小結の安田忠夫が仁王立ちするも、小鹿会長が「どけコラ。殺すぞ」と叫び、背後でナガサキさんが眼光鋭くするや、自然と道が開いた。当時の大日本メンバーだったTAJIRI(49)は「リングに上がると、新日本の選手は会長と桜田さんを中央分離帯のように避けて僕らに襲い掛かってくるんです」と証言する。ナガサキさんは「俺は新日本の道場でやってきたことをお前らに教えた。だから何もひるむことはないよ」と堂々としていたという。
 団体が格闘技「バーリトゥード」路線に転じるや、ナガサキさんは95年9月26日に駒沢で、ジーン・フレジャー(米国)との一戦に出撃。試合前にはブラジルに約1か月間の柔術修行に向かうも、何も対策を練らずにビーチを走っただけで臨んだ。試合はわずか36秒でKO負け。「どの程度の力なのか、一発食らってから起き上がり、プロレスラーらしく反撃しようとしてたんじゃないか。突発的なカウンターで決まったけど、それだけ自信があった」とTAJIRIは回想する。
 巡業中にもエピソードがある。約30人の暴走族に宣伝カーが取り囲まれるや、たった一人で750tの大型バイクを1台ずつ破壊。最後尾までゆっくり片付けていく背中は、まるで映画「ターミネーター」のようだったという。また高速道路で軽自動車が炎上しているのを発見し、移動バスを降りてダッシュで救出へ。だが炎に包まれた女性がナガサキさんの風貌におびえて中からロックしたため、ドアを壊して救出したこともあった。
 一方でいじめやしごきを徹底的に嫌った。練習は厳しかったが、若い選手やスタッフにまで細かく気を使った。
 リングを下りれば「身近な人間には威圧感を与えない人だった」と関係者は声を揃える。谷口が「昨年12月、大日本の選手と4人でファミレスに行ったのが最後です。「お前にごちそうしてもらうとはなあ」と笑ってました」としんみり語れば、小鹿会長は「道場はナガサキに任せられたからこそ、オイラは営業に専念できた。ゆっくり休んでほしい・・・」と天を仰いだ。
 名レスラーの偉業は、永遠にファンの記憶に刻まれる。

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