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熊本工業高校ではラグビー部で活躍。八幡製鉄(後の新日鉄)のラグビー部ではフォワードとして全日本代表にも選ばれた。100mを11秒台で走った。65年8月に日本プロレス入り。豊登に草津清正のリングネームをもらい、10月7日、釜石大会での本間和夫戦でデビュー。デビュー戦は10分引き分けに終わった。夏に吉原功の国際プロレス設立に参加しすぐに渡米。アメフトのプロリーグ、ブリティッシュ・コロンビア・ライオンズのキャンプに参加した。国際プロレス(当時はTBSプロレス)のエース候補として帰国。68年1月にルー・テーズのTWWA王座に挑戦するもバックドロップで失神して惨敗。日本ではこの時のマイナスイメージがつきまとった。70年2月にサンダー杉山と組んでIWA世界タッグ王座を獲得。ラッシャー木村、ストロング小林、マイティ井上、アニマル浜口とパートナーを変えて同王座に何度も就いた。71年にはAWAに遠征し、オックス・ベーカーと組んでAWAミッドウェストタッグ王座を獲得。9月11日、AWAミッドウェストヘビー級王座を獲得。国際プロレス末期はフロント入りしていた。77年に木村と組んで全日本プロレスの世界オープンタッグ選手権に出場。4位の成績に終わる。80年7月9日、熊本大会での場外乱闘中にジプシー・ジョーにイスで強打されて右足アキレス腱を切断。その試合を最後に欠場を続け、81年8月の国際プロレス崩壊と共に引退。引退後は健康食品会社に勤務し、93年に独立。息子がK1に出場し2代目グレート草津を名のった。08年6月21日、ガンのため死去。
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