レスラーノート

グレート草津

本名:草津正武
1942年2月13日
熊本県熊本市出身
192cm 118kg

タイトル歴
IWA世界タッグ
AWAミッドウェストヘビー
AWAミッドウェストタッグ
英国西部ヘビー
英国南部ヘビー
得意技
足4の字固め
ジャンピング・ニーパッド

熊本工業高校ではラグビー部で活躍。八幡製鉄(後の新日鉄)のラグビー部ではフォワードとして全日本代表にも選ばれた。100mを11秒台で走った。

1965

65年8月に日本プロレス入り。豊登に草津清正のリングネームをもらい、10月7日、釜石大会での本間和夫戦でデビュー。デビュー戦は10分引き分けに終わった。夏に吉原功の国際プロレス設立に参加しすぐに渡米。アメフトのプロリーグ、ブリティッシュ・コロンビア・ライオンズのキャンプに参加した。国際プロレス(当時はTBSプロレス)のエース候補として帰国。

1968

68年1月にルー・テーズのTWWA王座に挑戦するもバックドロップで失神して惨敗。日本ではこの時のマイナスイメージがつきまとった。4月にトニー・チャールスを破り英国西部ヘビー級王座を獲得。5月25日、札幌中島スポーツセンター大会でアルバート・ウォールを相手に防衛戦。2対1で勝利して防衛に成功。6月22日、岩国市体育館大会でジョン・コックスを相手に防衛戦。2対0で勝利して防衛に成功。9月11日、横浜スカイホール大会で英国南部ヘビー級王者のブル・デービスを相手にダブルタイトルマッチ。1本目は8分22秒、足4の字固めで勝利。2本目も1分16秒、足4の字固めで勝利。2冠王になった。10月15日、下館市青果市場前広場大会でミスター・ギロチン(ケンドー・ナガサキ)を相手に防衛戦。2対1で勝利して防衛に成功。

1970

70年2月3日、サンダー杉山と組んでIWA世界タッグ王座を獲得。2月6日、小倉三萩野体育館大会でジョー・コルネリウスを相手に防衛戦。2対0で勝利して防衛に成功。6月7日、銚子体育館大会でトニー・チャールスを相手に防衛戦。2対0で勝利して防衛に成功。9月8日、広島県立体育館大会でワイルド・アンガスを相手に防衛戦。18分7秒、足4の字固めで勝利。この試合後、英国西部ヘビーと英国南部ヘビーの両王座は封印された。11月19日、ラリー・ヘニングボブ・ウィンダム組に敗れてタッグ王座から転落。12月12日、台東体育館大会で杉山と組んでヘニング、ウィンダム組に勝利してタッグ王座を奪回。その後、タッグ王座は草津がアメリカ遠征のため返上。

1971

71年にAWAに遠征。オックス・ベーカーと組んでAWAミッドウェストタッグ王座を獲得。9月11日、AWAミッドウェストヘビー級王座を獲得した。

1972

72年7月7日、大田区体育館大会での王座決定戦でストロング小林と組んでビル・ミラーバロン・シクルナ組を破りIWA世界タッグ王座を獲得。

1973

73年4月18日、土浦スポーツセンター大会でマッドドッグ・バションイワン・コロフ組に敗れてタッグ王座から転落。5月14日、船橋ヘルスセンター大会でラッシャー木村と組んでバション、コロフ組を破りIWA世界タッグ王座を獲得。その後、木村がIWAヘビー級王座を獲得したためにタッグ王座は返上。

1975

75年6月8日、盛岡市体育館大会での王座決定戦でマイティ井上と組んでジェフ・ポーツ、ブッチャー・ブラニガン組を破りIWA世界タッグ王座を獲得。11月3日、後楽園ホール大会でピエール・マーチン、マッドドッグ・マーテル組に敗れてタッグ王座から転落。12月2日、横浜文化体育館大会で井上と組んでマーチン、マーテル組を破りタッグ王座を奪回。

1976

76年6月7日、福山市民体育館大会でリップ・タイラーエディ・サリバン組に敗れてタッグ王座から転落。6月11日、古河市民体育館大会で井上と組んでタイラー、サリバン組を破りタッグ王座を奪回。

1977

77年、タッグ王座を返上し、第1回 IWAワールド・タッグ・トーナメントに出場。1回戦でマッドドッグ・バション、ジプシー・ジョー組に敗れた。3月26日、蔵前国技館大会でアニマル浜口と組んでジョン・クイン、クルト・フォン・ヘス組を破りIWA世界タッグ王座を獲得。12月に木村と組んで全日本プロレスの世界オープンタッグ選手権に出場。4位の成績に終わる。

1978

78年1月5日、大阪府立体育館大会でザ・サモアンズ1号、2号組に敗れてタッグ王座から転落。1月20日、大田区体育館大会で浜口と組んでサモアンズを破りタッグ王座を奪回。

1979

79年1月21日、後楽園ホール大会で山本小鉄、星野勘太郎組に敗れてタッグ王座から転落した。

1980

80年7月9日、熊本大会での場外乱闘中にジプシー・ジョーにイスで強打されて右足アキレス腱を切断。その試合を最後に欠場を続け、国際プロレス末期はフロント入りしていた。

1981〜

81年8月の国際プロレス崩壊と共に引退。 引退後は健康食品会社に勤務し、93年に独立。息子がK1に出場し2代目グレート草津を名のった。08年6月21日、ガンのため死去。