レスラーノート

キラー・コワルスキー

KILLER KOWALSKI

本名:バルデック・コワルスキ(ブラデック・コワルスキ)
1926年10月13日(24年説あり)
カナダ・オンタリオ州ウィンザー出身
198cm 120kg

タイトル歴
AWA世界へビー(モントリオール派)
WWWF世界タッグ
ハワイのUSへビー
豪州のIWA世界へビー
アメリカス・へビー
モントリオールのGWA世界へビー
得意技
フライングニードロップ
ストマッククロー

大物悪役レスラー。ポーランド移民2世として生まれる。47年にルー・テーズにスカウトされて、セントルイス地区でプロレス入り。デビュー当時のリングネームはターザン・コワルスキー。52年にモントリオール派のAWA世界へビー級王座を獲得。同王座は62年までに8回獲得した。52年10月12日、カナダ・ケベック州モントリオールでユーコン・エリックと対戦し、ニードロップで左耳の一部を切り落とす。3ヶ月後にエリックが復帰し、53年1月14日のコワルスキーとの再戦はモントリオールで初めてのテレビマッチとして生中継された。この試合をきっかけに「キラー」の異名がつき、トップヒールとしての地位を確立。63年3月に日本プロレスに初来日。同年、ゴリラ・モンスーンと組んでWWWF・USタッグ王座を獲得。WWWFではトップヒールとして活躍し、ブルーノ・サンマルチノとも対戦した。72年1月31日、ロスでジョン・トロスを破りアメリカス・ヘビー級王座を獲得。76年にマスクをかぶりC・オコーナー(ビッグ・ジョン・スタッド)と組んでジ・エクスキュースナーズを名のりWWWF世界タッグ王座を獲得。その他、ハワイのUS、豪州のIWA世界、ロスのアメリカス、モントリオールのGWA世界の各ヘビー級を次々に獲得した。日本プロレスに2回、全日本プロレスに2回来日。77年に引退。40代からベジタリアンに転向。引退後はマサチューセッツ州メルデンに住む。生命保険のセールスマンをしながらボストン郊外のマサチューセッツ州セーラムでレスリングスクールを開き、インディ団体IWFを運営。HHH、チャイナ、ペリー・サタン、ジョン・クローナス、ジャイアント・バーナードをはじめ優秀な選手を輩出した。92年9月29日、FMWの横浜スタジアム大会でジョン・トロスとエキシビションマッチで対戦。03年9月にレスリングスクールを閉鎖。08年8月8日、心臓発作でボストン市内の病院に緊急入院。8月30日に死去。



スクラップブック
「キラー・ウォルター・コワルスキーの訃報を聞いて、悲しみでいっぱいです。彼は私の日本でのキャリアを確立するために、それこそ空に向けて打ち上げるロケットのように支援してくれたのです。あれは1963年、日本プロレスの第5回ワールドリーグ決勝戦の東京体育館。まさにこれから力道山vsコワルスキーが始まる前、WWA世界チャンピオンとして来日した私は試合前にリング上で紹介されたのです。それまでは、ウォルター(親愛を込めて、こう呼ばせてもらう)とはモントリオールでイリオ・デ・パウロらと食事をした仲。ウォルターはすでに大スターで高額のギャラを稼いでいたが、私たちはバッファロー地区でなんとか生計を立てていた。1959〜1960年のころだ。いまだから真実を話そう。ネクタイにスーツ姿でリングに上がった私はコワルスキーに歩み寄り、握手を求めた。その瞬間、彼は耳元でこう囁いた。「オレの顔を張れ。そしてリングを降りろ」一瞬、その意味がわからなかったが、コワルスキーの言うとおりにやってみた。すると、場内は騒然とした。そして、一瞬にして日本人の心をつかんだ。平成20年のいまでも日本のファンから「リング上でコワルスキーの頬に平手打ちをかましたのを覚えている」と言われる。ウォルター・・・50年以上に渡って私の師であり、友人であり続けたことを感謝する。そして心からご冥福をお祈りします」
(週刊プロレスNO.1438 ザ・デストロイヤーの追悼コメントより)