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諌早高校では相撲とラグビーで活躍。東洋大学に進学後はラグビーに専念。近鉄入社後は全日本代表として活躍した。76年9月には日本人選手としてはただ一人、世界選抜のメンバーに選ばれた。11月に近鉄を退社。東洋大学のラグビー部コーチをして、運動具店に勤務。77年11月に国際プロレスにスカウトされてプロレス入り。ミスター・フジというマスクマンとなってプレデビュー。素顔になって78年6月23日、後楽園ホールの寺西勇戦でデビュー。デビュー後すぐに海外武者修行に出発。カナダ・カルガリーに渡り、7月3日に英連邦ジュニアヘビー級王座を獲得。ニュー・ブランズウィック地区ではマリタイム・タッグ王座を獲得。秋にドイツハノーバーのトーナメントにも出場。12月8日に帰国。帰国後、ラグビーファンの作家、野坂昭如の命名により阿修羅原に改名。野坂の草ラグビーチームのコーチをしていた関係もあった。79年5月6日、後楽園ホール大会でミレ・ツルノのWWU世界ジュニアヘビー級王座に挑戦。1本目は5分48秒、回転エビ固めでツルノの勝利。2本目は4分4秒、ダブルアームスープレックスで原が勝利。3本目は5分43秒、ブロックバスターで原が勝利。WWU世界ジュニアヘビー級王座を獲得した。5月7日、富士市民体育館大会でツルノと再戦。18分10秒、原のバックドロップで両者ノックアウトの引き分けに終わって防衛に成功。7月20日、大館市民体育館大会でダイナマイト・キッドを相手に防衛戦。評判以上のキッドの動きに大苦戦し、18分37秒に両者リングアウトの引き分けで王座を防衛。7月21日、村上市体育館大会で原のWWUジュニア王座とキッドの英連邦ジュニア王座のダブルタイトルマッチ。1R4分での7Rのポイント制という試合形式となり、判定による引き分けで王座を防衛。7月25日、三島市民体育館大会でキッドと3度目の対戦。ノンタイトルマッチの3本勝負で行われたこの試合では、2対1で勝利した。10月5日、ネルソン・ロイヤルのNWA世界ジュニア王座に挑戦。試合はロイヤルのペースで進む。試合終盤、原のバックドロップにロイヤルがロープを蹴って防御すると、両者同時にマットにダウン。14分15秒、両者ノックアウトに終わった。80年3月31日、後楽園ホール大会で剛竜馬を相手にWWUジュニア王座の防衛戦。反則勝ちで防衛したが、試合内容では剛に圧倒された。4月2日、新日本プロレスの蔵前国技館大会で藤波の持つWWFジュニア王座に挑戦。12分56秒、逆片腕固めで敗れた。81年1月2日年に再渡米し、ルイジアナ州を中心に転戦し、ヘビー級に転向。3月24日に帰国するが、間もなく国際プロレスが崩壊。当初は新日本プロレスへの参加が決定していたが、マイティ井上と共に全日本プロレスに参加。81年10月20日、後楽園ホールでの全日本プロレス第1戦で天龍と対戦。両者リングアウトの引き分けに終わった。83年2月23日、井上と組んでアジアタッグ王座を獲得。同年夏に天龍のUNヘビー級王座に挑戦して敗退。87年6月、天龍と天龍同盟を結成。地方大会でも手抜き一切なしの荒々しく激しいファイトを展開。天龍とのタッグは「龍原砲」と呼ばれた。9月3日、スタン・ハンセン、オースチン・アイドル組を破りPWF世界タッグ王座を獲得した。88年8月29日、日本武道館大会でジャンボ鶴田、谷津嘉章組を破り世界タッグ王座を獲得。8月30日、大阪府立体育会館大会で鶴田、谷津組に敗れて王座転落。天龍と共に全日本プロレスの一時代を築いたが、私生活の乱れが原因で11月に解雇される。その後91年7月、SWSで現役復帰。SWS崩壊後はWARの旗揚げに参加。94年10月3日、引退記念試合の天龍戦で敗退。引退試合となった29日の後楽園ホールでは、第5試合に出場。天龍と組んで冬木、邪道組に敗れた。メインの時間差バトルロイヤルでは天龍と決勝まで残り、驚異的な粘りの末に敗れた。引退後は故郷に帰り99年に母校の諫早農高で筋力トレーニングのコーチとなる。01年5月5日、FMWの川崎球場大会で天龍対冬木戦の特別レフリーとして登場。02年4月から県立農業大学校で体育の非常勤講師となる。02年秋にはコーチしていた諫早農高のラグビー部が全国大会に出場した。その後、職を離れて隠遁生活。
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