第8章
「ビッグへッド」


酸性雨のせいかもしれないが、体中がすっぱい匂いで満ちている。足元からおれの存在が漂ってくる。おれの存在から、おれ自身が逃れられない。雨がおれの垢を落とし、下水管に落ちていく。おれの心もいっしょに落ちていく。カサカサカサ音がする。やがて雨もやんで、おれの心は乾いていき、その存在は、とてつもない匂いを放つことだろう。   H

頭が震える・・・。破裂!突然の空虚!バラバラに砕け落ち、物語は終わりを告げる・・・ないはずのものが再び浮かび上がっていく・・・飛行を続けていく・・・彼らには予想もつかないことだが、私は存在を続けている・・・想像の容認性・・・理解されるべきイメージ・・・私はいらない・・・流転・・・消えるのは当然だ・・・動きつづけるのだから・・・しかし・・・消えないということは本当に奇跡だ・・・sai

僕は部室ノートに書いてあった記述を、頭の中で唱えていた。ここは中央広場だ。僕は今、321教室に向かっている。広場には白い男と黒い男の追いつ追われつの激戦のせいで、ところどころに虚無が散らばっていた。それが僕にはきれいに見えた。黒い男はまだ逃げつづけていた。白い男は何度も黒い男を追いつめたが、そのたびに逃がしつづけていた。勝敗はもうすぐ決まるはずだと大学新聞には出ていた。

14号館は、今も残骸だけの廃墟だ。再び建つことは、もうないのだろう。となりの13号館は、宮殿のように豪華な装飾をちりばめて建っていた。僕はその中に入って大理石の大広間を抜け、階段をのぼった。長い廊下を進み、重たいドアを開けて321教室に入った。巨大な円形の教室だ。ホコリっぽい匂いがした。
「おい。こっちに来いよ」
見ると、Kが一番後ろの席に陣取っていて、手招きをしている。ふくらんだ腹が2人分の座席を占領していた。
「おまえも試験?」
と僕が聞いた。
「ああ。どうもこの講義は苦手で、一度も出席しなかったよ」
「それって、苦手というよりも、やる気がないだけじゃないのか?」
「まあな。でも、おまえだって講義に出てないだろ?」
「うん」
「おれは仕事の方が忙しくてな・・・ほら、飲めよ」
「また象石酒か。いいよ、試験前だから」
Kはグビグビ飲みはじめた。口からこぼれ落ちた酒がキラキラ光っていた。
「でも、一度も講義に出てないのに、試験できるかな?噂によると、すごく難しい試験だって」
と僕が言った。
「え?うそだろ?ものすごく簡単だって、おれは聞いたけど。・・・まあ、ビッグへッドのやる気は認めてやるけど、死ぬまで覚えている講義っていうのも、迷惑な話だぜ。一度でも講義に出ると、あいつの声が忘れたくても忘れられなくなるんだよ?」
「ああ、講義というより、催眠術に近いからな」
「それより、聞いた?どうもマティのやつ、マーパラでなにかやったらしい」
「へえ?そうなの?初めて聞いたよ」
面倒なことになりそうだったので僕は嘘をついた。
「こっちは、そのせいでいろいろ大変な目にあったよ。今度やつに会ったら、よく言い聞かせてやる」
「言い聞かせてあの性格が直るなら、そもそもあいつなんか、はじめから存在してないよ」
「でも、あの店と競争してたから、つぶれてよかったよ」
「今だって、相当儲かってんだろ?これ以上まだ儲けたいのかよ」
「うん。いずれは大学中にチェーン店を展開させて・・・・・・おい。教授がこっちをにらんでるぜ。こっちは仕事を休んでまで来たんだから、絶対に単位を取るぞ」

教室の中心の円形の教壇を僕は見つめた。もっとも、教壇を見ても、教授は見えない。さらに上空に目線を上げる必要がある。教授はいつものようにゆったりと宙に浮かんでいた。教授の体は頭だけだ。伝説によると、勉強しすぎて、体の他の部分が退化してなくなってしまったらしい。なるほど。教授は僕たちのほうを見ていた。彫りの深い顔に、太い眉毛。パーマをかけたもじゃもじゃの黒髪が重力に逆らって上にのびている。目玉の方が僕の体より大きい。あの飲みこまれてしまいそうな険しい目つきは、ただ事ではない。僕は一瞬で目をそらしたが、前の席の2、3人は、にらまれたショックで気を失った。僕たちが会話を止めたので、教授は教壇のすぐ上まで降りていった。そして、ぐらりと揺れた。顔を大きくゆがませ
「グオッッホッ!」
と咳払いした。その瞬間、最前列に座っていた世間知らずの学生たちが、風にあおられてはじき飛ばされた。どよめく教室の中で、教授はピタリと静止した。
「ファックショイ!」
今度はこっちまで風が吹いてきた。3列目までの学生たちが吹き飛んだ。教授の唾が嵐のように教室中に降り落ちた。用意周到な学生達は傘を開いてこの唾のシャワーを避けた。窓から入る光線を浴びて、教室に大きな虹ができた。
「それでは講義をはじめる。前回も予告したとおり、本日は試験を行う。講義の後半に試験を行うことになっておる」
グオオオォォォン・・・。教室中に教授の声が響いて、僕は気を失いそうになった。そういえば、耳栓を持ってくるのを忘れていた。
「前回は、来るべき会議の話。そして、大学当局の会議参加の目的について話をした。今回は、会議における具体的な内容について触れてみたい」
この時、教室の真ん中くらいに座って熱心にノートをとっていた学生が、手を挙げて立ち上がった。
「先生。そんな話は前回の講義ではされてなかったと思いますが・・・」
「ぶっ!ばかもぉぉぉん!」
ピュイィィィィン!教授の目玉から緑色の光線が発射されて、学生に向かって炸裂した。
「わぁぁぁぁ!」
学生の体からバチバチ火花が飛び散った。学生は痙攣して床に倒れた。かろうじて、まだ息をしているみたいだ。学生の周りを5人の看護婦たちがとり囲み、応急手当てをしはじめた。通称、ビッグへッドガールズだ。彼女たちはビッグヘッドに雇われている。ビッグヘッドの講義に出るのは命がけの行為なのだ。
「今は質問を認めている時間ではない。では、会議といっても、そもそもなんのための会議であるのか。ワシの参加する教授会のような専門的なものであるのか。それともおまえたちのサークルの飲み会のごとき無知なる言葉のぶつけ合いのような、低い次元のものであるのか。学識経験者のうわっつらの粒々の興味を満たすだけでなんの解決にもならないおしゃべりのようなものであるのか。いずれにしても、会議というのは複数の人物がいないと成立しない。鏡に向かって自分に話しかけながらニヤリと笑う行為は、くれぐれも諸君らに忠告したいのだが、それは会議とは言わない。お互いの利害や主張があってこそ、会議は成立するのだ。そこで、誰が今回の会議に参加するのか考えてみたい。まず主催者であるが、この宇宙の設立者であることが推測される。彼、もしくは彼女が、この移ろいゆく時の1地点であるこの世界について、なんらかの解答を求めていることは明らかである。白い男と黒い男の争いが激しくなるにつれ、この宇宙は混乱でかき回されている。そして会議の参加者としてαケンタウルス星人が考えられる。彼らは意図的にではないにせよ、この問題に深く関わっていることは明らかだ。しかし、重要なのか彼らではない。彼らではなく、この世界をさらに混乱させている者がこの大学にいるのだ。・・・・む・・・あぶない・・・もうすぐやってくる。・・・この場所は危険だ。これより先の講義は、本当にこの話が聞きたい者だけ残ってもよい。それほど熱心でないものは今すぐ出ていけ!逃げろ!単位などいくらでもくれてやる!」
教授は巨大は目玉をグルグルと回した。グルグルグル・・・。僕たちは、あっけにとられた。グルグル回る目玉が催眠術のように働いた。催眠術のせいで、体がしびれて動かない。ビッグヘッドは興奮していた。
「出てけ!出てけ!出てけ!」
とビッグヘッドは怒鳴るのだが、僕たちは動けない。どうやら意図的にかけた催眠術ではないようだ。教室内で、誰1人として席を立つ者はいなかった。

「おい、ど、どうする?」
僕はKの方を見た。Kは特製の耳栓をしてぐっすり眠っていた。
「お、おい、K。ここは危険らしいぞ」
僕は一生懸命にしびれる腕を伸ばして、Kの肩をゆすった。
「なんだよ・・・もう・・・食べられないよ・・・・・・」
Kはのんびりと目をこすってから、また机の上に顔をうずめた。僕は教室中を見わたした。誰も動こうとしない。半分くらいの人間が、Kのような特製の耳栓をして眠っているようだ。催眠術でしびれて動けない学生もたくさんいる。よく見ると僕のように、どうしようかキョロキョロ周りを見てながら迷っている学生も何人かいた。教授は僕たちを見おろし、満足そうにうなずいた。
「そうか。そんなにワシの講義を聞きたいのか。ワシは今まで諸君らを誤解していたようだ。ぐわっはっはっは!」
ぐわっはっはっはっと、教室が教授の笑い声でガタガタ揺れた。
「講義を続けよう。・・・ンガ・・・。重要なのは・・・」
バタン。その時、教室のドアを開けて、黒い制服姿の大学当局の人間達がゾロゾロと現われた。そしてビッグへッドを見上げながらズラリと横に立ち並んだ。・・・20人くらいいる。
「フォッフォッフォッ・・・。とうとう来おったか。だが、まだまだワシの講義は終わらんぞ。全ては大学の仕業だったのだ!つまり、大学の支配者達が、会議の参加を狙っているのだ。このままではいけない!なぜならあの連中は会議の本質を誤解している。大学は世界を支配したと同時に世界を無意味にしたのだ!空虚を支配し、元々小さかった存在の基盤をさらに減少させた!カタストロフィ!そう、カタストロフィ!・・・世界が消える日は近い」
立ち並んだ制服姿の連中が、静かに腕を上げた。その腕には銃が握られていた。やつらは、一斉にビッグへッドに向けて発砲した。教室の中心に太陽が現われたみたいだった。爆発音が地面を震わせた。何度も何度も気が遠くなりそうなほど爆音を放ちながら、ショットガンやサブマシンガンやライフルが、ビッグへッドに向かって撃ちこまれた。ビッグへッドに命中するたびに、火花がバチバチ飛び散った。一斉射撃をまともにくらって、ビッグへッドがグラリとかたむいた。
「うわあああああぁぁぁぁ!」
教室中は大混乱だ。もはや講義どころではなくなっていた。教室を埋めつくしていた学生たちは、出口に殺到した。でも、どこの出口も外からカギがかけられているようだ。ビッグヘッドは口から白っぽい煙を吐いて応戦した。教室の中は火花と煙でなにも見えない。ビッグヘッドの目玉だけが上空でらんらんと輝いている。
「おい。なんだこりゃ。やばいぞ。こりゃ」
Kが僕の腕を力一杯につかんだ。Kは、やっと目が覚めたようだ。
「だめだあぁ!」
「ドアが開かない!」
「もっとよく見てみろ!」
「閉じこめられたぁ!」
「これじゃ全滅だぁ!」
聞こえるのは悲鳴と轟音と破壊音だけだ。それよりも大きな音が聞こえはじめた。
「うおおおぉぉぉ・・・・・・」
ビッグヘッドのうなり声だ。
「席につきたいものだけ席につけぇぇぇ。講義を続けるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ・・・」
僕はKに向かって耳元で怒鳴った。
「講義を続けるみたいだぞ!せっかくだから聞いていこう!」
「おまえ正気かよ!」
「この席なら安全じゃないか?」
「ばか、この煙、毒ガスだぞ!」
「本当?・・・そりゃ、まずいな・・・」
白い煙が僕の周りに満ち満ちてきた。ズドドドドドバンズバババンザザドドドドドッドドドドドッズドドドドドバンズバババンザザドドドドドドドドドドドドドドド・・・。破滅的な轟音が、教室中の空気を鋭く切り裂きつづけている。
「つまり、これは自然なことなのだ。本質的には世界を続けさせるための会議なのだ。終わることは当然だが、続けることもまた必然なのだ。より広い意味での継続なのだ。無から生じていくのがプロセスである。そして無に帰することもまた、プロセスなのである。自然の法則の支配権の奪取というのは誤った見解だ。大学がその責任に耐えられるのかという問題が、この場合起きてくる。ワシには、それが疑問だ。所有者のいない夢など無に戻すべきなのだ。消え去るのが当然なのだ」
ビッグヘッドの反撃も及ばず、敵の攻撃はいつまでも終わりそうになかった。強力な弾丸がビッグヘッドの額に命中した。額から真っ黒い煙が噴きだした。ビッグヘッドは敵の攻撃に耐えられなくなったかのように全身を震わせた。目玉から発射される怪光線も弱まってきた。ビッグヘッドは息を止めた。そして頬を膨らませた。瞬く間に顔全体が膨らんでいった。火の玉のように顔が赤くなった。教授はグルグルと自転をはじめた。教授の回りの時空がゆがんできた。地響きがして教室がグラグラ揺れはじめた。

ぶわっっっっっっっっっふ!

教授の吐き出した息が、衝撃波となって教室を襲った。全ての物が吹き飛んだ。僕とKは机の下にもぐりこんだ。天井が砕けてボコボコと落ちてきた。
「ぐわっはっはっは!まだまだ若いもんには負けんぞ!以上で講義を終わる。・・・なにか質問は?」
教室中が静まりかえっていた。その場の空気を巨大な頭部が支配していた。モウモウとたちこめる白い煙の向こうに、教授が浮かんでいる。ビッグへッド。まさしくそのあだ名のままに。おそらくあの時、至近距離にいたはずの敵は、吹き飛ばされてどこかへ飛んでいったのだろう。跡形もなかった。ビッグヘッドの完全な勝利だ。僕は瓦礫の下から立ち上がり、右手を垂直に挙げた。
「・・・はい・・・ゴフッ!」
咳きこんだ。
「君は・・・すまない。最近年のせいか、何億人も学生を教えこんできたので、小さすぎて区別がつかなくて、君の名前が出てこないが・・・なんだね?」
教授の声がずっしりとふり落ちた。
「誰の夢なんですか?」
と僕が言った。
「うむ・・・」
とビッグヘッドが唸った。
「なかなかいい質問だ。もっとも、ワシの講義を最初から聞いてきた者にとっては、当然のように湧きでてくる疑問といえるな。うむ、その質問は、ワシのテストの問題にも含まれておる。つまりだ」
そこまで言って、ビッグへッドが口を閉じた。片方の口の端がピクピクと震え、ゆっくりと上昇した。そして、もう片方も・・・。
「おい、見ろよ・・・」
Kが隣に立って、唖然とした表情でつぶやいた。
「笑ってるぜ・・・」
そう、ビッグヘッドは笑みを浮かべていた。いつものような攻撃的な笑いではなく、やさしそうな笑顔だった。それはとてつもなく大きな笑顔だった。瓦礫の下から這い出てきた学生たちは、呆然とこの教室に起こった奇跡を見上げていた。僕たちは、それを受け入れた。教授の笑みを、そしてそれに関する全てを。ひび割れた天井から、光線が降り注いでいた。
「つまり、そういうことなのだ」
とビッグヘッドが言った。

白い紙切れが何枚も頭上に降ってきた。バラバラと教室の床にまき散らされて、敷きつめられて、まるで雪が積もったようになった。
「それでは今からテストをはじめる。答案ができあがった者から退出してもよい。答案ができていない者でも退出してよい。提出しても提出しなくてもよい。問題用紙を手に取らなくてもよいし、手にとってもよい。鉛筆でもボールペンでもシャーペンでもワープロでもカーボン紙でもコピーでもパソコンでも前の学生の背中でも自分の脳みそでも、なにを使ってもよい。答案用紙に書いてもよいし書かなくてもよい。表現したくなければなにもしないでもよい。テスト時間は任意とする。諸君の好きなだけやってくれたまえ。以上。テストはじめ。いや、もうかなり前からはじまっている」
僕はテスト用紙を拾わなかった。つまりはそういうことなのだ。僕とKはそれを拾わなかった。

そして、教室のドアを蹴りとばして、黒い男が入ってきた。黒い男は教室をすばやく横切って、窓ガラスをぶち破って出ていった。虚無が部屋中にふりまかれた。
「見たか?」
「見た・・・」
「αケンタウルス星人がサイを消したのなら、黒い男の正体は・・・」
「それより追いかけろ!」
とKが怒鳴った。黒い男は教室にいた何人かを、通り過ぎるのと同時に消していった。僕の目の前で消えていったサイと、その消え方がそっくりだった。僕は猛然と走りだした。


プロローグ「ワーカーホリックの閻魔大王」
第1章「狼少女」
第2章「安藤教授」
第3章「隕石」
第4章「白い男」
第5章「ジュカン」
第6章「ドライブ」
第7章「マーパラ」
第8章「ビッグへッド」
第9章「黒い男」
第10章「会議」
第11章「4次元パースペクティブ」

エピローグ「最新の建築デザインの校舎」


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