第2章
「安藤教授」


いつまで行っても店はやってない。今日は台風町は水びたし。アダムーアダムベイべ。どこまで行っても店はやってない。今日は台風道は水びたし。アダムーアダムベイベ。アダムゥアダムゥヤァアダムーアダムベイベ。ジョッブジョッブジョッブジョッブジョッブジョッブジョッブジョッブ!はてしがないよはてしがないよ。今日は台風僕は水びたし。アダムーアダムベイベ。かさがこわれた。とおーいとおーい所にやってきた。店はやってない店はやってない。かさをくれ、かさをくれ、かさをくれ。もう帰りたくない。アダムーアダムベイベ。おれに家をくれ。   H

4人の男たちは、そのまま僕の目の前を通り過ぎていった。楽器を持っていないのに目つきの鋭い男が指をふるうとギターの音色が聞こえた。長髪の男が宙に指をふるわせながらベース。猿のような顔つきの男が口を開くとマイクでもあるかのような大音響。調子っぱずれな音程だ。落ち着きなく手足をびくびく揺らしながら歩いているのは、よく聞くとドラマーだった。全ての音が有機的に結合したグルーヴィーな演奏だ。だんだん4人の姿が遠くの方に見えなくなっていき、演奏も聞こえなくなった。
「あれは何だったのだろう」
と僕は言った。
「楽器もないのに演奏してたわ」
「世界の終わりって歌ってたぜ」
「まるで分からない・・・」
「幻想だな。まあ、いろいろ分からないこともあるだろうよ」
と、Kがいきなり立ち上がってズボンのほこりをたたいて言った。
「もう閉門の時間だ。行こうぜ」
Kは何だか元気だ。この状況がたまらなく楽しいらしい。サイの寮には門限がある。したがって僕は一人で帰らなければならない。

コンビニのビニール袋の取っ手を両耳にかけてガスマスクのようにして、今や遅しと吐く体勢に入っている酔っぱらいが、隣に座っている。帰りの地下鉄で、僕は座りながら考えた。
「ここはどこだろうか」
僕には別世界のように感じた。
「ツギハタカダババタカダババ」
車掌の声がスピーカーから聞こえる。「の」が抜けてる。今まで生きていたのとは違う世界。そんな感じ。
「ピーポー!ピーポー!ピーポー!」
見知らぬ若い男が、サラリーマンの疲れた背中をかき分けながら、目の前を通り過ぎていった。この男の挙動からは、ここが別世界なのかという、僕の区別がつきがたいように思える。一番困ることは、ここが現実世界で、僕だけがここを別世界だと感じていることだ。どうせならみんなにとってここが別世界であることを僕は願った。それならみんな互角だ。何もすることがなく、しょうがなくポケットをごそごそ探ったが歯医者の診察券しかなかった。
「分かる?分かるだろうけど。夜はまだまだ続く。朝は、やってこない好きな所へ行けばいいのよ」
駅についた。プラットホームの階段をのぼっていると、下から若い女の声が反響し、こだまとなって、生温かい不協和音を奏でた。いつものように下宿へ向かう。僕の下宿は下町にある。家ばかりが重なって、小さな公園がすぐそばにある。もう深夜なので、とてもひっそりとして、残飯をもらいに来る猫ばかりが群れをなしてこちらに向かってくる。公園の横道を通ると、ギィギィというブランコの音が聞こえた。
「ねえ。家へ帰って寝たって、朝は来ないよ」
あの女の子だ。無視して通り過ぎようとしたが、なぜか後についてきた。
「君も家に帰れば?」
僕は冷たく言った。
「・・・家があればね。家に帰れば、どうなるのよ。あなたの家って何?あたしの家とあなたの家が、おんなじだと思ってんじゃないの。あたしの家には、なんにもないの。あそこは帰る場所じゃないのよ」
「・・・ごめん」
と僕はあやまった。
「あやまったって、朝は来ませんよ」
「どうして」
「どうしてって・・・」
女の子は口をつぐんでしばらくして
「恋人は狼少女の日だからよ!」
と笑いだした。
「キャキャキャキャキャ!」
「君がずっと幸せなことを祈ってやるよ」
僕はため息を白く吐きながら黙って歩いた。そしてそのまま後ろを振り向かずにドアを開けて、永遠にそこに位置し続ける布団の上に倒れこんだ。こんな日もある。自分にそう言いきかせた。そして夜が来た。___________________________________________。起きても、まだ夜のままだった。
「ほらね?朝が来ないでしょ?来ないでしょ?まだ夜でしょ?夜でしょ?」
すぐそばで女の子が、部屋のインテリアとして使っている僕の分厚い哲学書を開いて読んでいた。
「君は誰だ」
「そろそろあせってきたんじゃない?」
「・・・大学生は、さみしい人間なんだ。だからしょっちゅうコンパとかサークルのおしゃべりだとかして、さみしさを紛らわせたりするんだよ。みんなと同じ世界の一部だと自分を認めたくて、さらにみんな同じ地平に立っているんだと共感したくて、人に会ったりするんだ。だから君のように、まるで世界観の違うような奴につきまとわれたりすると、だんだん不安になってくるんだ」
「でも本当の意味を考えるなら、あたしとあんたの出会いこそ、本当の出会いと言えるんじゃない?」

ジリリリリリリリリリリン!

電話のベルが鳴った。僕は反射的に受話器に飛びついた。
「はい。もしも・・・」
「あ、まさるくんですか?」
「いや、違いますが・・・」
突然ガチャンと切れた。受話器を置いたらすぐにまた電話がかかってきた。
「もしもし?まさるくんはいますか?」
「いや、いませんけど」
「はーい、失礼しました」
ガチャン。また電話が鳴った。
「あ、まさるくんのお宅ですか?」
「いや、違いますけど」
「あれ?えーと・・・。あ、大学生さんですよね?」
「はい」
「私、カセプという専門学校の高橋と申しますけどただいま新入生募集を行っておりましてまさるくんは英語について興味を持っておられますよね少しお時間をいただきましてアンケートさせていただきたいのですが今なら無料で・・・」
止まることなく女の声がグルグル耳の奥でのたうちまわる。10分ばかりして、女の話では、頭金の会費が10万円で、説明会のために駅前のビルの3階に来てもらいたいとのことだ。
「ですからいつ来ていただいてもかまわないんです、ほんの数分の手続きだけですんじゃいますから」
僕はうろたえながら言った。
「あの、せっかくですけど、あまり興味がないんで・・・」
向こうの電話がプツンと切れた。受話器を置くとすぐにまた電話がかかってきた。
「もしもしぃ?まさるくんのお宅ですかぁ?」
「あの、まさるじゃなくて、間違い電話がこれで4件目なんですけど」
「あ、あの、研修日なんで、あまりよく分からないんですけどぉ、まさるくんは英語について興味をお持ちでしょうかぁ?」
「あ!同じアドレス帳を使っていますよ!」
「今なら受講料金が新学期のためお安くなっていましてぇ」
「あ、あの、何人ぐらいの人が今、研修やってんの?」
「え、研修?」
「今、研修してるんでしょ?何人が電話しているの?」
「ああ、えーと、けっこう多いですよ。50人くらい。それでまさるくんは英」
僕は受話器を置いた。床に。しばらくすると、受話器を外れたことを知らせるブザーが鳴り始めた。僕は電話線を抜いた。

まだサイと付き合い始める前に、僕はここに引っ越してきて、電話をつないだ。家具を置いたりポスターを貼ったりした。料理道具やポトスの鉢植えも買ってきた。ウキウキしていた。その日いろいろな人に電話をかけて、僕の新しい住所を教えたものだ。しかし全部が全部留守電になっていて、僕はテーブルに向かって自分の声を吹き込むだけで、一度も話すことができなかった。そして引っ越してから一番最初にかかってきた電話が間違い電話だった。
「あれ?間違えちゃったガチャ」
女が叫んで電話が切れた。もう深夜だった。僕はその時、自分の人生も、このように留守番電話と間違い電話だけで構成されているんじゃないかと考え込んでしまった。その後何ヶ月かして食事は外食だけになり、ポトスも床に際限なく伸びきって、枯れていった。

僕は使えなくなった電話を見つめ、それからトイレに入って、出てきて、手を洗って、外の暗闇へ向かった。

大学の門は閉まっていると思ったけれど、なぜか開いていて、ひっそりと僕を静かに待ち受けているようだ。校舎の教室はあちこち電気がついていた。校舎の壁に大きく「怪獣に注意!機械の中に入って別の世界を探せ」と赤いスプレーでラクガキされていて、不安な気分になった。まばらな人影が音もなく路上にたたずんでいた。人間ではない何かが周りにいるのも見えた。
「好きな所へ行けばいいのに」
狼少女が言った。
「別にどこにも行きたくないね。もうじき321教室でテストがあるから、そこに行かないといけないけど」
「そう。あたしは用があるから行くわ」
「どこへ」
「隕石が落ちてくる!キャキャ!」
パッとかけだしてそのまま消えて見えなくなった。地下の部室にはサイがいた。
「・・・いつまでたっても朝が来ないの」
「不安だね・・・。ほかに誰か来なかった?」
「朝が来たら来たで嫌なんだけど、来なければ来ないで何か・・・」
「うん。のんびり待っていようよ」
「そういえば、さっきKが来たけど、安藤教授の研究室へ行っちゃった」
「アンドー教授って?」
「Kのゼミの先生」
「ああ。あの、幻のゼミだね」
「知ってる?」
「いや、よく分からない。だってあのゼミって、学内誌にも載ってないし、学内にもゼミ募集の告知がないし、誰にも存在が知られてないんでしょ?」
「フランス現代哲学を教えている人で、専門は・・・忘れちゃった。普通のおじさんぽい人。高校生の娘がいるわ」
「僕も行ってみようかな。君も行かない?」
「私はやめとく。あの人変なのよ。今年はどうか知らないけど、去年、一般教養の講義で、200人の学生中、150人の単位を落としたの」
「本当?」
「うん。ほかの講義でもそれくらいの割合で学生の単位を落とすから、周りの教授達から反感を買われていて、来年はゼミの担任も辞めさせられるみたい」
「けっこう厳しい先生だな」
「そうそう。昔、教授が違う学部にいた時も、あまりの厳しさから誰も安藤教授のゼミを取らなくて、一人しか学生がいない時があったの。その人と安藤教授の2人だけで2年間授業をやっていて、2人で飲みに行ったりして仲がよかったけど、結局4年生のゼミ論を、その人、落としちゃったの」
「じゃあ、その人卒業できなかったの?」
「うん。伝説になっているのよ。2年間もたった一人に教え続けて単位をやらないなんて、ほとんど自己否定よ。自分自身に単位を落とすようなものよ。私も去年、あの人の般教の授業を落としちゃった。・・・だから、行きたくない」
「そうか・・・。でも、どういう人か、一度会ってみないと分からないだろ。Kが好きそうな理由も分かるけど」
Kは大体において、嫌われ者や世間の片隅にいる人、世の中の暗黒部分に属している人が、大好きなのだ。
「じゃ、ちょっと行ってくるよ。すぐ帰ってくる」
Kがわざわざ出かけていったとすれば、何か考えがあってのことだ。何か分かるかもしれない。サイが小さく手を振って見送った。

外に出ると、大学中に、たくさんのモノたちがあふれていた。学園祭のようなにぎやかさだ。仮装パーティともいえるかもしれない。
「おっと、ごめんなさいよぉ」
僕に魔女がぶつかってきた。たぶんあれは魔女だ。あのホウキの使いかたは、掃除婦のおばさんのできる芸当ではない。
「大学にこう人が多くちゃ、むにゃむにゃ・・・」
と連れのドラキュラ伯爵に話しかけながら、ミノタウルスが人ごみにまぎれていった。空にはピンクの象と虹色のペリカンと幸福の青い鳥たちが飛びはねていた。残念ながら、これは逃れようのない現実なのだ。コロボックルにつまずきそうになりながら、僕は8号館に入った。廊下には狼男のような獣人系や、未来からやってきたばかりの宇宙人系の一族であふれていた。それぞれ出会いと別れについて熱心に話しこんでいた。僕は安藤教授のドアを開けた。
「つまりだ。世界市場から見てかくのごとき大変動は、はじめから予測できた事柄なのだよ」
「すなわち何をもって大変動かという問いですよね。アウストラロピテクス以来、人類の二足歩行へと移行した態度は、大した変化じゃないってことですよね」
僕を振りかえりKが手まねきした。
「よお、たった今、話が始まったばかりだ。ここに座れよ。あ、彼は私のサークルの友人です」
「あ、こんにちは。私も先生のお話を聞かせていただけませんでしょうか」
「おお、いいとも、いいとも。この部屋に3人も人がいるなんて久しぶりだな。さあさあ、そこにかけなさい。まあ、たてこんではいるけど、私の机上はさながら都会のラビリンスを形成しているようだよ。私は墨東綺譚が好きでねえ」
教授は、幾多もの学生を地獄に突き落としたとは思えぬくらいの穏やかな笑みを浮かべていた。こめかみのあたりに白髪が混じっていて、目は半分閉じたような顔つきだった。
「いいかね」
と教授が言った。
「我々は想像の飛躍を常に考えている。世界はそこいらの科学者が考えているような3次元的なものではない。いつでも飛躍する用意があって地上で身がまえているか、それとも飛びあがって宙に浮いてふわふわ漂っているかのどちらかなんだよ。そしてちょうど今の世界は宙に浮いている状態にあるんだ」
「なるほど。だから先生は先週の講義で「恋人は狼少女」を予測されたんですね?」
とKが言った。
「いや予測ではない。その時から世界は徐々に浮き上がっていたんだよ。今でも世界は上昇を続けている」
「いつまでその上昇は続くんですか?」
「その予測はとても難しい。エジプトで発見された例の文献を私なりに解読してみると、彼ら古代エジプト人はこの浮遊を「世界の崩壊」と名づけていたようだ。前時代的多面世界の歴史にも、マソキソ族の伝説にも、これと似たような状況にあったことが判明しているのだが、そのどちらも浮遊がいつから始まっていつ終わったのかについては正確には分かっていない。今日これから教授会があるんだが、ビッグヘッド教授は、このような意見をもっていて、すなわち、何かが消費された時、たとえばゴム風船の中に入ったヘリウムが抜け出たら風船が降りてくるように、抜け出てしまえば降りてくるのではなかろうか?私にははなはだ疑問に思えるのだがね」
その時教授は僕を見て
「どうかね。君もそう思わんかね」
と言った。
「ええ。そう思います」
と僕はうなずいた。
「それでですね。このまま世界が宙に浮いているとするとですね。それって良いことなんですか悪いことなんですか」
「どちらでもないね」
とKが見下すような口調で言った。
「うむ。価値観の問題は「恋人は狼少女」の初期によく議論されることだが。こう考えてみてはどうかね?我々は地球に存在する。もし地球が逆回りに自転したとしても、太陽に突っこんだりしたとしても、我々は地球に存在しているのだ」
「その説明には納得しかねます」
と僕は急いで反論した。
「もし地球が太陽に突っ込んだら私は悲しみます。これは良くないことです。地球と私自身は全く別個の存在ですから。大切なのは自分が疑問を常に発することだと思います。自分の良いと思う世界とは何か。どうすれば世界を変えることができるかという問いかけです」
教授は僕の考えに黙ってうなずいた。深い満足感を覚えたように見えた。目の端のしわを深くして、ほほえんだ。
「うむ。今の君の考えはとても面白い。おもしろいね。これからもずっと覚えておくことにするよ。でも、考えてみるとだ」
教授は机の紙切れに走り書きしながら言った。
「世界は変えられるものでもあるが、世界も君に干渉しているんだよ。君が変わらないと言い切れるか?月並みな話だが、君自身の細胞も、3日前に生まれたものもあれば、今死んだものもあるんだ。細胞レベルから言えば、君は確実に変化し続けているんだよ」
「問いかけ続ければいいんじゃないでしょうか。人間は妥協の産物です。許さなければいけない」
「先生。ちょっといいですか」
Kが怪訝そうな顔をして言った。
「変わるとか変わらないとか。さっきから何を話しているんですか?何が変わっているんですか?」
「私が思うに」
教授が小さくせきをして言った。
「アイデンティティなんてどこにもないね」
「私はあると思います」
と僕は言った。
「アイデンティティはこの世界だと思うけどなあ」
とKが言った。
「でも先生。本当に浮遊しているだけなんですかぁ?私はα-ケンタウルス星人の低周波連動装置の故障のせいだと思うんですけど。二次元データファイルと四次元パースペクティブの混合と誤作用の結果に違いないんじゃないですかぁ?」
「いやいや。データ関連の枠組みには類似性が見られるが、四次元パースペクティブは地球上ではそもそも作動しないはずなのだよ。うん」
「そうかなあ。僕ら以外にここに興味を持っている種族なんて、αケンタウルス星人しか考えられないけどなぁ」
「αケンタウルス星人って誰ですか」
と僕が聞いた。
「そこいらにいるよ。最近はどこにでも見かけるようになった」
すぐにKが答えた。

その後僕たちはコーヒーをごちそうになって研究室を出た。わけの分からない話だった。外に出ると、パンダのぬいぐるみに出会った。
「教授に会ってきたんですか?」
パンダはうちとけた口調でKを見上げた。
「うん、そうそう。元気?おや、そちらに見えるのは・・・」
「ご無沙汰しています。エリマキトカゲです」
「ああ、これはこれは。もう一度あなたにお会いしたいと、常々思っていました・・・」


プロローグ「ワーカーホリックの閻魔大王」
第1章「狼少女」
第2章「安藤教授」
第3章「隕石」
第4章「白い男」
第5章「ジュカン」
第6章「ドライブ」
第7章「マーパラ」
第8章「ビッグへッド」
第9章「黒い男」
第10章「会議」
第11章「4次元パースペクティブ」

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