プロローグ
「ワーカーホリックの閻魔大王」


深い、息苦しい朝が明けた。僕はゆっくりと目を開け、来るべき審判の時、その絶望的な一瞬の刺激をベッドの中で思い、もう一度目を閉じふとんの中にくるまった。しかし、時は刻一刻と迫っていた。しかたなく僕はずり落ちるようにベッドから抜け出した。今日は歯医者の日だった。

知らないあいだに世紀末になっていた。1999年。大学2年の夏休み。そして一人暮らしの部屋の中で、僕はまだカビの生えていない食パンと水道のおいしいカルキ水を喉に入れながら(ちょっとぐらい賞味期限が過ぎていても、消毒液がたっぷり入っているので大丈夫)、自分の爪がえらくのびているのに気づいた。何も起きなかった。えらく静かだった。ただ時が流れていくだけ・・・。僕は古今東西のポストモダン的な「人間の孤独」について書かれた書物の中で、一体一人暮らしの人間がよく爪をのばすという事実に触れられていたことがあっただろうかと思いを寄せた。しかし僕の全部を照らしてみて、僕がどこもポストモダンチックでないことに気づいた。

ジリリリリリリリリリン!

びくっ。心臓が止まるかと思った。僕は傍らの目覚まし時計を止めた。そろそろ行かなくては。僕は自転車に乗った。今日で二回目だった。去年よく行っていた歯医者は、ある日歯が痛くなったので行ってみると、何もないただの原っぱになっていた。移転したらしい。そして何日かして違う歯医者が同じ場所に建った。僕は今日、親知らずを何本か抜くのだ。僕は最近親知らずを抜いた恋人のことを思った。大学で見たサイは、別人と思うほどに頬をはらして涙ぐんでいた。とても痛いらしい。そういえば、抜いた奴はもっといた。マティ。あいつは抜いた次の日学校を休んだ。いや、歯を抜く抜かないに関わらず、あいつはいつも休んでいる。とても痛いらしい。それに池田、ジュカン、丸子、小田、ヒッピー。とても痛いらしい。やっと着いた。白い建物。「にれの木歯科」しばらく立ち止まって、やがて決心して、僕はドアを開けた。チャリンと頭上でベルが鳴った。

そこに何があったか?この前来た時より少し状況が違っていた。でも一週間しかたってないぞ。何か、おかしかった。いや、あまりにおかしすぎて何だか頭がクラクラした。吐き気がしたが、気合いで抑えた。普通は目の前に下駄箱があって、スリッパがあって、待合室があって、受付があって、バイキン君が登場する絵本が本棚にあるはずだ。そして優秀な歯医者の壁には、ある程度まで心を落ち着かせてくれる風景画があって、無能の歯医者の壁には、何だか気持ちをイライラさせる抽象画やトリックアートやウォーリーを探せ!が架かってあるのだ。そして治療室。そこからドリルの音が漏れる。そして泣き声。そして聞こえはしないが感じ取ることのできる苦痛の叫び。

でも今日は、何だか様子が変だった。まず第一に、ここは外だった。普通だと、このドアを開けると室内のはずだ。向こうの方を見ると、たくさんの人が行列している。みんな死人のような顔をしている。地面は岩だ。ずっと遠くに火山が噴火している。あたり一面が硫黄の匂いに満ちている。何だか、ここは地獄のようだ。この状況の理論的な認識の方法を考えている間、僕がぼーっと突っ立っていると、向こうの方からばかでかい赤鬼が鉄のこん棒を片手に姿を見せて、行列の最後尾を指差した。
「さっさと並ばんかい!」
一度も見たことがないのに、どうしてこれが鬼だと僕に分かったのか?一つには角が生えていたし、よく絵本なんかで出てくる悪役すぎて大人になると泣けてくる鬼にそっくりだったからだ。赤鬼は、僕が通っている自動車学校の教官に似ていた。思わず
「ブレーキは右足で踏むんですか?」
と聞きそうになったが、赤鬼の顔が恐かったのでやめにして、おとなしく死者の行列の最後方に並んだ。誰も話していなかった。みんな黙っていた。僕は並んでいる顔色の悪い人達をみんな死人と判断した。だってそう思うでしょ?

僕は行列に並んでいる間、何だかホッとした。日本人は行列の中に身を置きたがる人種だとかいう話だし、そしてなんとなく親知らずを抜くのが先にのびたような気がしたからだ。この地獄のような状況は、脳がまだ認識の方法を考えている最中だった。やがて行列が進んでいき、僕が先頭になった。僕の目の前には閻魔大王がいた。子供の時、どこかどうでもいい場所で聞いた話によると、彼は地獄の番人で、嘘をつくとその人の舌をペンチで抜いてしまうのだ。東京の有名大学に入って2年、ついに僕は彼と対面できるほどになったわけだ。閻魔大王はマホガニーのデスクの上で山積みになった書類を羽毛のペンで乱雑になにやら書き込んで片付けていた。

「なんだ?どうした。俺になんの用だ。もう定時すぎたぞ。まったくこいつらは目の前で行列を作りやがって、まったくそれでいてどいつもこいつもおれになんの用もないんだからな。おれは自分の仕事をするのに手一杯なんだ。誰がお前らの面倒なんかみるかよ。背比べしすぎのドングリたちめ!かってに死んでくれよ。まったく困った奴らだ」
閻魔大王は僕に目もくれずに書類を片付けていった。それでいて一向に書類は減ろうとはしない。仕事に没頭しすぎて周りが見えてないみたいだった。くたびれたスーツを着て、Yシャツの襟は汚れ、擦り切れていた。彼は明らかにワーカーホリックだった。
「すいません・・・。ここ、どこ?」
「・・・ここどこ?ここはどこか?おい、ここはどこかだって?」
閻魔大王は顔を上げて、ギョロリと血走った目をこちらへ向けてうなった。
「どこに行くのか分からないで、おまえはいつもどこかに行くのか?一体おまえの行きたいところはどこだよおい。おまえは行きたい場所に行かないのかよ」
「あの。僕。ま、まだ生きているんですけど・・・」
「そんなの関係あるかよ!・・・てめえ。嘘を言うと舌を抜くぞ」
閻魔大王は机の引き出しからペンチを取り出して、僕の目の前に突きつけた。ペンチはよく磨かれていて、ピカピカに光っていた。ペンチをしばらくにらんだ後、閻魔大王は大きくため息をついた。
「なんでこんなもん持たなきゃならねえんだよ。まったく。どっかの野郎が俺によこしたんだよな。おれはこんなもんより修正液が欲しいのに・・・。感熱紙も足らなくなってるしな」
閻魔大王はパチンと指を鳴らした。すると僕のすぐそばにドアがパッと現れた。
「ほら、行けよ。何かの間違いだったみてえだな」
閻魔大王はもう自分の仕事に戻っていた。もう僕の存在さえも忘れているようだった。わけがわからず僕はドアを開けた。もうそこは、もといた場所ではなくなっていた。
「我々が求めていたものは、ズバリ君だ」
突然の一言に、僕は少したじろいだ。見ると待合室のソファーに幼児がポツンと腰かけて絵本を開いていた。


プロローグ「ワーカーホリックの閻魔大王」
第1章「狼少女」
第2章「安藤教授」
第3章「隕石」
第4章「白い男」
第5章「ジュカン」
第6章「ドライブ」
第7章「マーパラ」
第8章「ビッグへッド」
第9章「黒い男」
第10章「会議」
第11章「4次元パースペクティブ」

エピローグ「最新の建築デザインの校舎」


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