小市民ダークロのありがちで気の抜けた感じのやつ

3丁目のバスケットボール


留守番電話がいっこうに鳴らないので、私は電話を解約してしまおうかと考えた。電話がなくても、私はいっこうにかまわない。きのう、投げつけて壊れたきり、時計さえもない。何もかも投げつけて生活しても、私は別にかまいはしないのだ。時々自分の記憶を全部消してしまいたくなる。やりなおしどころじゃなく、初めからなかったことにしてもらえないだろうか。痛々しい記憶。痛々しい記憶。痛々しい記憶。

深夜、最後に電話をかけてから終わりにしようと、私は受話器を持ち上げた。無意識に番号をかけていた。「・・・もしもし・・・?」「おれだけど」「・・・え?」「大東文化大学の麦倉だけど」「麦倉さん?」「明日会わないか?」思わずそう言ってしまった。彼女の方も、別にかまわないという。「じゃあジュンでいいか」「どこでもいいですけど・・・」しばらく話したところ、彼女は今、小学生相手に塾のアルバイトをしているしているそうだ。特に好きでしている仕事ではないらしい。「明日って、会社あるんでしょ?」「うん」「じゃあ、麦倉さん行かないとまずいんじゃない?」「そんなわけでもないんだよ」「でも・・・」「別にいいんだよ。じゃあ、明日」私はそう言って、電話を切った。酒が効いてきて、苦しくなったのですぐに寝た。

朝になって、やることがあったのを思い出した。約束を守る行為が大切に思えた。投げつけてしまえないものを見つけたかった。着替えもせずに、そのまま部屋を出て電車に乗った。町に出てから、少し途方にくれた。行くあてもなく町をさまよっているような気がした。忘れかけていた道を歩いた。ジュンという喫茶店は、まだつぶれずにそこにあった。店は古く、看板はかすれ、店名の上の「純喫茶」という文字しか見えない。昔に比べ「喫茶」という文字も、ほとんど見えなくなっていた。私は店に入った。シフォンケーキがおいしい店だった。彼女はここでアルバイトをしていたことがあった。私は入口近くの棚からスポーツ新聞を取ってきて、競馬の予想をしながらくつろいだ。マスターがやってきて「よう、久しぶり」と声をかけた。私もここでアルバイトをしていたことがあった。

しばらくして彼女がやってきた。「どうしたの?」大学を卒業したきり、彼女には会ったことはなかった。「いや。別に。たまには素人の女の人に会いたくなってね」「まだ、キャバクラなんかに通ってるの?全然変わらないのね」彼女こそ変わっていない。なんでいつもジーパンなのだろうか。地味な服しか着ないのか。なんでいつも化粧をしないのか。アルバイトばかりして定職に就かないのか。「だってどこも雇ってくれないのよ。27の女だと」彼女は私より大学の学年は1つ下だったが、年は2つ上だった。「そうか・・・大変なんだ」「うん」それっきり2人とも黙った。共通の友人、共通の話題、相手についての興味も、私たちにはすでになくなっていた。

私は店内を見渡した。平日なのに、この店には客がよく入っている。意味もなくふんぞり返っているサラリーマン。おしゃべりしている女子高生。もっとも、あの人たちはサラリーマンでも女子高生でもないのかもしれないが。タバコを吸って、無言のひとときをやり過ごそうとしたが、去年に肺を悪くしたきりポケットには何も入っていない。しかたなくテーブルの爪楊枝をポキンと折った。「麦倉さんて、今日会社に行かなくてもいいんですか?」と彼女が聞いてきた。「うん。どうでもいいんだ」「お仕事、つらいんですか?」「いや、つらくないよ。君は?」「私はあんまり好きじゃないの。単なるその場しのぎみたいなもんだし」「大学院には行かないの?」「行きたくてもお金がない」「行くために稼いでいるの?」「そんな。大学で勉強はしたいけど、別に院じゃなくて、カルチャースクールでもいいの。一般の人向けに大学でやってるのよ」

しばらく話して、また2人とも黙った。私が2本目の爪楊枝に手を出したとたん、「じゃあ、そろそろ行かなきゃ。用事があるから」と彼女が席を立った。「別に用事なんかないだろ?いつも忙しく見せようとしているだけだろ?」「本当に用事なのよ。友達と待ち合わせしているから。今日は麦倉さんが元気だって分かって、よかったよ」「ねえ、少しだけ一緒にいようよ。これで最後だろうから」私も立ち上がった。「外でも歩かないか?」私たちは店を出た。

「どこに行きたい?」と私は聞いた。「別に」と彼女が答えた。どこか遠くのほうまで行ってしまいたかったが、そこまでたどり着けない気がした。「バスケットボールでもしないか?高校時代の君の青春の。全てをささげたバスケットボール」私たちはすぐにスポーツ店に入ってバスケットボールを買った。思ったより値段が高かった。「3丁目にバスケのコートがあったよ。そこに行こう!」「本当に、するんですか?」私はドリブルをしながら歩いた。なかなかいい気分だった。すれ違う人に何度もぶつかりながら、華麗なフェイントですり抜けていった。「青だ!渡ろう!」私たちは横断歩道を渡った。「パス!」となりを走る彼女にボールを投げた。「きゃあ!」と声をあげて彼女はボールを受けた。信号が赤になっても、車は止まっていてくれた。

私たちはいろいろな場所をドリブルで突破した。本屋、飲み屋、キャバクラ、馬券売り場、役所、結婚式場。「バカなことしたもんだね」と私が言った。「バカなことしたもんね」と彼女が答えた。私たちはデパートの中をかけ抜けた。香水が彼女にまとわりついた。私は店員やおばさんめがけてシュートした。

殺風景なビルに取り囲まれた場所に、コンクリートの広場があった。バスケットコートには誰もいなかった。スケボーをしている人は何人かいた。私たちはそこで試合をした。1対1。バスケの世界では「1on1」というのだろうか。彼女は最初から真剣だった。私は意表をつかれて、たちどころに何点も取られた。ボールは彼女の思いのままであり、私はそれに触ることさえできなかった。彼女はドリブルの名手だった。軽々と私の前をすり抜けた。リズムもバランスも最高だった。何度も私は、彼女のシュートする姿に見とれた。背の高さも関係なく、彼女のボールはコントロールよくネットをとらえた。「どうよ!すごいでしょ!」「・・・うまいなあ。・・・すごい。・・・今まで君がバスケをしているのを見たことなかったから、一度見てみたかったんだ」

夕方近くになって、高校の制服を来た集団がやってきて、もう1つのゴールを使って3on3をやりはじめた。たぶん私たちがいなければ、両方のゴールを使って普通のバスケットボールをするのだろう。私たちをけげんな顔をして何度もふりかえっていた。「そろそろ帰ろうか?」と彼女が言った。「うん」と私は答えて、ゴールネットの前までドリブルした。「ちょっと待って!ペナルティショットだ。・・・さあ、逆転優勝に向けて、ブルズのエース、マイケルムギクラン。力が入ります」私は構えた。「これが入ったら、おれは君とまたおつきあいをします。友達とも仲直りします。きちんと会社に行って、愛する人と幸せな家庭を築きます」

・・・やあ!私はボールを投げた。ボールはゴール板に当たってネットの上の輪をくるくる回った。中に入ればゴール、外に落ちればアウト。ボールは力なく止まり、そして、ゴールをそれて、コンクリートの地面に大きく弾んだ。私はしばらく立ちつくしていた。彼女は弾んだボールをやさしく受けとった。そしてふりかえって、声を出さずににっこり笑った。「わざと、はずしたでしょ」「・・・いや、本気だったよ。帰ろう」「このボール、どうする?」「君にあげるよ」「それ!」彼女はバスケをしている向こうの連中にボールを投げた。「あげるよ〜!」連中は無言でボールを受け取って、さっきまでの試合を続けた。

「すげー!いいもんもらっちゃった!」「コートがあいたぞ!」「じゃあ、きのうの続きなぁ!」夕陽が連中を影にしていた。彼女はまぶしそうにバスケットコートをふり返って言った。「あのコートで、さっきまで私たち、走り回っていたのね」私はふり返った。あまりにも、それは、キラキラとした、美しすぎる光景だった。